2011年11月6日日曜日

「し」について

 助動詞「き」の連体形「し」について、俳句での誤用云々が取り沙汰されて久しいが、岩波古語辞典の基本助動詞解説の大胆な記載について、触れておく。

 き・けりは、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。

 以上を力説した上で、「き」と「けり」について、解説がある。かいつまんで紹介する。

 意味は「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は「だった」と自己の体験の記憶を表明することが多い。しかし、自己の体験し得ない、または目撃していない事柄についても用いる。例えば、みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には「き」を用いて「…だったそうだ」の意を表現した。

けり 「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故「けり」が詠嘆の助動詞だといわれることもある。しかし「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたときに用いるもので、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる。

 大野晋氏の説が通説なのか研究者ではない私には知るところではないが、時制ではないと言い切ったことによって、大きく開けるものがあるような気がする。俳句実作者としての私は、♪「これでいいのだ~」と思うばかりである。「けり」など、まさにこれは切れ字そのものではないか。


【追記】大野晋氏の学説が学界でどのような位置をしめているかについては、週刊俳句の大野秋田さんの記事で紹介されている井島正博氏による『古典語過去助動詞の研究史概観』をご覧下さい。文内のムード機能説として位置づけられています。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿