2018年5月19日土曜日

五吟歌仙 垢のなきの巻 評釈

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな

 当世「垢」といえばツイッターなどのアカウントのことであるかも知れない。目ではなく「耳で見にゆく」と言っているのだから、ますますSNSで過剰に発信される情報が思われる。そんな一切から自由になりたくてその手の共同体から退会したのではないか。一切の情報を無視して自分が捉える桜はこういうものだったのだ。という可能性をまずは認識しておこう。

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな
    乳母車押す囀のなか       ゆかり

 そのようなネットスラングの存在は認識しつつ、脇は「垢のなき耳」を掃除の行き届いた乳児の耳と捉え直した。自信に満ちた母親像を音声情報の中に描いている。ネット連句の常で、発句と脇は必ずしも同じものを見ているわけではないところで挨拶を交わす。

    乳母車押す囀のなか       ゆかり
   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵

 第三から展開が始まる。春の句を三句続けるところから「遅き日」という季語を選択し、時刻表通りに来ないバスについて、「遅き日の遅きバス」と畳みかけ、さらに句またがりで「待ちくたびれて」とすることにより、いかにも遅い感じを出している。

   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵
    山はこちらに海はそちらに      霞

 ここまで叙景句があまりなかったのでそういう趣としているが、バスガイドの「右に見えますのは」式の口上をも思い起こさせるリズミカルなものとなっている。

    山はこちらに海はそちらに      霞
   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節

 前句の後半から導かれたものだろうが、月の座で月を砂に埋める人はあまりいない。このあたり七節ならではの句境である。

   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節
    野分のなかを駆けぬける影      な

 なにしろ月を埋めてしまったのだから、表六句らしからぬ不穏な様相を呈している。なんだか分からないものが駆け抜ける。ついでに「大いなるものが過ぎ行く野分かな 虚子」を頭の隅に思い出しておこう。

    野分のなかを駆けぬける影      な
ウ  跳躍し神に近づく夜の鹿        り

 前句のなんだか分からない影が姿を現した瞬間を捉えた。

   跳躍し神に近づく夜の鹿        り
    ワインセラーに口紅忘れ       庵

 この付けはすごい。前句を高精細なテレビの映像と捉え、チャンネルを切り替えるように成熟した女性像に転じている。

    ワインセラーに口紅忘れ       庵
   東京で私の未来だつた人        霞

 恋は一瞬にして過去のものとなった。トレンディドラマのひとこまのような前句を「東京」と断定し、「私の未来だつた人」という措辞が切ない。

   東京で私の未来だつた人        霞
    ノイズは濡れるラジオのやうに    節

 そして思い出にノイズが混入する。「濡れるラジオ」と言えば、真空管からトランジスタの時代になったとき、電池でも鳴る可搬のラジオをそれこそ風呂場にも持ち込んで聴いたものだった。場所を変えれば電波状況も変わる、そんないろいろが混信するノイズなのではないか…。

    ノイズは濡れるラジオのやうに    節
   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な

 人生でラジオが必要だった受験期の記憶で、机上のリアリティを描いている。

   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な
    半日でとる原付免許         り

 蛍光ペンと言えば丸暗記だろうが、毛色の違うもので付けてみた。

    半日でとる原付免許         り
   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵

 とりたての免許でぶっ飛ばす湾岸。折しも夏の月がのぼる。

   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵
    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞

 驚いたことに河童語が登場する。河童は寝るね、と言っているのか、河童跳ねるね、と言っているのか、人間の捌き人には分かりかねる。

    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞
   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節

 宇宙卵は河童が残したものだろうか。このあたりまことに人智を超えたコミュニケーションである。

   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節
    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な

 宇宙の創世に関わる宇宙卵に対し、「アンドロメダ忌」で付けている。捌き人は架空の忌日だと思っていたが、埴谷雄高の命日で二月十九日らしい。であれば春の季語である。「まで」って、前日から飲み明かすのだろうか。

    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な
   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り

 その忌日が「アンドロメダ忌」と呼ばれるような人物であれば当然脳が保存されているだろうと断定し、花の座の句に仕立てている。

   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り
    万愚節とて行く女坂         庵

 保存された脳にはあの世まで持って行きたかった嘘もいっぱい残されているのだろうか。万愚節、女坂という語の運びがなんとも火宅っぽい。

    万愚節とて行く女坂         庵
ナオ 淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞

 雪でも降ろうものなら転倒しないようにゆっくり登った女坂の途中の母校であるが、今はまだ春休みなのだろうか、灯りが消えている。名残の雪が感傷を誘っている。

   淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞
    色紙に溢る言葉優しき        節

 かつての学友の寄せ書きはどれも言葉が優しい。

    色紙に溢る言葉優しき        節
   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な

 伊東屋というのはかの文具店だろう。ほんとかよとも思うが、記入された色紙が見本として置かれてあるのだと詠んでいる。

   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な
    アニマル柄の還暦祝ひ        り

 であれば、ほんとかよという付句で返そう。伊東屋にアニマル柄なんてあるのだか。

    アニマル柄の還暦祝ひ        り
   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵

 アニマル柄から秘境探検的なものが導かれているが、行き先がただごとではない。補陀落(ふだらく)は仏教語で、インドの南海岸にあり、観音が住むといわれる山。

   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵
    真綿でくるむ貴方の右手       霞

 前句を成仏したものと捉えている。右手だけが遺ったのだろうか。枯野も真綿も冬の季語だが、季節感とは関係ない世界で展開している。

    真綿でくるむ貴方の右手       霞
   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節

 前句を情愛的なものに読み替えて付けている。

   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節
    新潮文庫の天アンカット       な

 これは初折裏二句目の媚庵句に似た展開となっている。フィクションの外側の現実で付けるこの手法に名前はあるのだろうか。天アンカットは製本上の用語で、小口のうち上方である「天」のみを断裁せずに残す手法だが、新潮文庫のように栞ひもがある文庫ではそもそも工程上、天を断裁できないという。

    新潮文庫の天アンカット       な
   海底のやうに時間が降り積もり     り

 天アンカットには埃がたまりやすいのを捉え、もっともらしく付句としている。

   海底のやうに時間が降り積もり     り
    先祖代々槍の家柄          庵

 時間の推移をそのまま先祖代々で受けている。「槍の家柄」というのは、まっすぐな気性で喧嘩っ早いという意味だろうか。

    先祖代々槍の家柄          庵
   望の夜に神と仏と盃を         霞

 月の座である。なにか現代なりに決戦のときなのだろうか。頼みになりそうなものを列挙している。

   望の夜に神と仏と盃を         霞
    波間ただよひ尾花蛸行く       節

 飄々とした付けである。尾花蛸は晩秋、尾花が散る頃の蛸で、産卵後なので味が落ちるとされる。悲壮な決意とともに尾花蛸が漂っていると思うとなんだか楽しい。よくこんな変な季語を拾ってきたものだ。

    波間ただよひ尾花蛸行く       節
ナウ 雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な

 そう来たかと変な季語で返す。雁瘡(がんがさ)は皮膚病の一種で湿疹、痒疹などをいい、俗に、雁が渡ってくるころにでき、去るころになおるところからいうとのこと。尾花蛸の孤独感とは異質な哀愁で付けている。

   雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な
    メビウスの帯クラインの壺      り

 子を寝かしつけ何をしているのかというと、位相空間に思いを馳せている。メビウスの帯は、帯を一回ひねって貼り合わせたもので裏表がない。クラインの壺は同じように管を一回ひねって貼り合わせたもので、三次元上では実現できない抽象概念であるが、これもまた表裏がない。

    メビウスの帯クラインの壺      り
   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵

 そんな数学的思考から我に帰ると、それはそれで宗教的な思考の中にいて、創世記の彼方を思っている。

   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵
    伊予柑むいたままの手のひら     霞

 エデンの園と言えば知恵の樹であるが、それが林檎なのかバナナなのかイチジクなのかは諸説あるらしい。そこは俳諧、なんと伊予柑で付けている。しかもまだ食べてない。人類はどうなるのか。

    伊予柑むいたままの手のひら     霞
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節

 花の座である。連句の三句の渡りでは自動的に打越は捨てられるので、すでに創世記とは離れて読む必要がある。前句の「手のひら」から「拾いつつ」が導かれているのだろう。パズルのピースのような断片が次第に集まって意味が伝わる期待とともに花のなかにある。
 
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節
    じやんけんぽんで出づるてふてふ   な

 挙句はもはや魔法である。前句の途上感をリズムに乗せて一気に解決させている。呪術的な楽天性というか、根拠のないおめでたさがすばらしい。

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