2018年10月6日土曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(1)

 しばらく岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018年)を読む。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる 岡田一実

 巻頭の句である。「火蛾は火に」で切れるという読みもあり得るが、「火蛾は火に」と「裸婦は素描に」とが助詞を揃えた対句で、両方が下五の「影となる」にかかると見るのが順当だろう。しかしながら「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」は「影となる」のありようが全然違う。前者は単に火という光源に対し火蛾が光源を遮ることを言っているのに対し、後者は光源を遮るという意味ではあり得ない。芸術作品の完成度に関わる内面的な描写のことを言っている。次元の異なるものをあえて対句とすることにより、この句自体が曰く言い難い影をまとっている。そして句集を読み進めるにつれ、その曰く言い難い影と、もうひとつ、ある種の水分がまさに句集のタイトル通り「記憶における沼」のように繰り返し現れるのに読者は直面することになる。巻頭の句にふさわしい一句であろう。

  眠い沼を汽車とほりたる扇風機

 二句目で「記憶における沼」の核たる「沼」が出現する。「眠い沼」とは現実界の沼に対する措辞なのか、それとも心象なのか。そのあたりはっきりしない茫洋とした感じこそがこの句の味なのだろう。ノスタルジックに汽車が通り、人がいるのかいないのかも定かでない世界で扇風機が回っている。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

 全句鑑賞になってしまいそうな勢いで恐縮だが、三句目も押さえておこう。この句では句集全体を通じて見られる外形的な特徴がはっきり見てとれる。ひとつはリフレインである。以前『ロボットが俳句を詠む』の連載で後藤比奈夫について書いたことがあったが、そこで触れたリフレイン技法のすべてを岡田一実はマスターしている。巻頭の「火蛾は火に」など、むしろリフレインの新たな領域を開拓している感もある。もうひとつの特徴を言えば、十七音の調べの中で岡田一実のいくつかは、短い単位をこれでもかと詰め込んだ感がある。とりわけ下五への詰め込み効果については別の句を例にあらためて触れたい。

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