次の章は「海馬より」。海馬は大脳辺縁系で古皮質に属する部位。本能的な行動や記憶に関与する。これまでの章と様相を一変し、介護俳句となる。このリアリティのために、フィクションの句は「偽家族日乗」に寄せられていたのだろう。痛切な句が続くが、ここでは章の最初と最後の句を引く。
痴呆とは海図のない旅さらの花 掌
地図であれば中七に収まるわけだが、わざわざ「海図」としているのは、自分で移動すればいいというものではないからだろう。老人の体調は海の波のように、穏やかな日もあれば激しく時化る日もあり乱高下する。
父咲(え)みて米寿の馬の駈けぬけよ
米寿のその日、つかのま穏やかな笑顔だったのだろうか。そのまま持ってほしいという万感の願望が「米寿の馬の駈けぬけよ」の命令形に込められている。ちなみに章の最初の句に「海」があり、最後の句に「馬」があり、海馬ならぬものに分かれているところが暗示的である。
次の章は「空蟬忌」。季節はめぐり「荒梅雨や関東平野は水の檻」を導入として、介護俳句がしばらく続いたのち息を引き取る。
死よ急ぐなのうぜんかずらの首あり
風船のしぼんだような凌霄花の様子が、痩せ衰えた老人の膚を想起させる。
ただならぬ蟬の選びし蟬の声
それがまさに虫の知らせだったのだろう。
次の章は「寒牡丹」。研ぎ澄まされた句境に至る。
鎖骨美し月光のはりさけん
骨格標本である可能性もなきにしもあらずだが、痩身の人体の無防備な首元のうつくしさだと読みたい。月光とぎりぎりの緊張関係にある。
寒落暉はげしき静の独楽とあり
高速に回転し均衡を保っている独楽と落日の取り合わせの句である。「寒落暉」と「独楽」は季またがりだが、実際に眼前にあってぎりぎりの緊張関係にあるのだから、つまらぬ指摘はすべきでないだろう。
次の章は「寒牡丹 ふたたび」。なにがふたたびなのかというと、父上に続き母上も亡くなるのだ。沈痛な句が並ぶが最後の一句を引こう。
神遊ぶ朱のひとしずく寒牡丹
表面上は寒牡丹の花弁のありようを詠んだものであろうが、この流れで挙句に置かれた「神遊ぶ」はまさに絶唱であろう。万感の思いが去来する。
最後の章は「俳句から詩へ」。自作四句と加藤かけいの一句から着想を得て口語自由詩へと展開している。「八日はや棚機津女(たなばたつめ)の解かれて」による一篇など、意外な展開で面白い。
(完)
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