2015年5月23日土曜日

お台場の巻・評釈

   お台場に汐の香つのる柳かな      媚庵

 媚庵さんの歌仙における作風からはほぼ一貫した郷愁が感じられるが、今回の発句はお台場。ペリー来襲で急造された海上の砲台跡地に一般市民が普通に訪れ るようになったのは、フジテレビの社屋が移転した頃からだろうか。とにかく作中主体はいまお台場に立ち、ゆれる柳とともに晩春の汐の香を浴びている。旧跡 を偲ぶ万感の発句である。

    観覧車から霞む半島        ゆかり

 脇は発句への挨拶として、同季、同じ場所で詠む。まさに現代の景として観覧車から遠景を一望しているわけであるが、お台場は歌枕としてはかつて鉄道唱歌 に歌われている。「窓より近く品川の 台場も見えて波白く/海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か」(大和田建樹作詞、鉄道唱歌の三番)。
 かつて品川の車窓からお台場とともに見ることができた景も今では観覧車の上からですね、媚庵さん。

   老いかねしうぐひすの音の絶えずして  銀河

 第三からが連句としての展開の真の始まりである。発句と脇で完結した挨拶から離れ、違う世界へ誘う。同季の中では時系列で付ける必要があるが、なにしろ 晩春が発句なので春といってもあとがない。ここでは機転を利かせ、夏の季語「老鶯」に対し「老いかねしうぐひす」とすることにより難題をかわしている。ま た、発句の嗅覚、脇の視覚に対し、第三で聴覚を詠んでいるところも、流石である。

    画布の小径に入れる紫         令

 鶯が鳴くあたりにイーゼルを立てて黙々と絵を描いている。「入れる」がなんとも心憎い措辞である。

   睡蓮の夢みる頃を照らす月       苑を

 月の座である。前句「紫」から睡蓮を導くとともに、媚庵さんの歌集『夢見る頃を過ぎても』を詠み込み挨拶句としている。なお、睡蓮は夏の季語であるが、睡蓮の夢だから季語にはあたらないという逃れ方をしている。

    竹伐る人と詩を書く人と        庵

 何かしら期限がある「夢みる頃」に対し、同時に存在する実務者と芸術家を並置している。それが同一人物なのか別人物なのかはあえて言及していない。「竹伐る人」は月→竹取物語から導かれたものかも知れない。


 初折裏である。ここからは暴れどころとして、ときに格調も品位もなく進行する。実際の歌仙では表六句が終わると酒が回ってくるとも聞く。

ウ  あひみてののちのこころの秋茜      り

 前句「竹伐る人と詩を書く人と」に対し、これをやり過ごすとしばらく恋の座に持ち込めない懸念があり、前句を恋人同士と見立て、百人一首から権中納言敦忠の歌を引用した。ただし悲恋である。詩人は本質的に仲間っぱずれなのだ。

    砂漠の百里四方友無く         河

 ここで訃報が入る。津田清子さんが亡くなったのである。「砂漠の木百里四方に友は無し 津田清子」を踏まえた悲痛な挽歌であるが、どういう偶然に導かれたものか前句の孤愁と滑らかにつながっている。

   幻の泛かぶひねもすよもすがら      令

 悲報を受けてそのまま付けている。打越の「あひみての」に対し「よもすがら」で「また歌留多?」ということもよぎったが、ここは駄目出しする場面ではない。

    高層ビルの非常階段          を

 ここで立て直す。いかにも幻が現れそうな遣句である。

   土鍋もち屋台へおでん買ひに出る     庵

 飄逸な句である。二十一世紀というのは実際そういう世界で、高層ビルと旧来の文化が共存する。

    練物ばかり選ぶ人妻          り

 居合わせた人妻は偏食なのかずいぶん変な買い物をしている。

   飛魚の波切つてゆき滑るやう       河

 人事が続いたので、意表をついて加工される前の魚に転じている。

    北回帰線こゆる唐船          令

 海洋進出する中国という世相のようでもありながら古風に「唐船」として、物語を次句にゆだねる作り方となっている。

   積み上がる発禁本に春寒し        を

 前句から国情不安を読み取ったものか、発禁本という不穏なものがどさりと積み上がる。

    カストリ煽る四月馬鹿の日       庵

 前句、わざわざ「春寒し」というところを見ると春本だったのか。安酒を煽りつつ生業とする。

   中年のしのび泣く夜の脳に花       り

 四月馬鹿の日は三鬼忌。「中年や遠くみのれる夜の桃」「算術の少年しのび泣けり夏」などを踏まえつつ、カストリで脳に花が咲いている。凄惨な花の座である。

    極限で似るものの家にて        河

 三鬼の『神戸』『続神戸』の登場人物たちはみな極限で似ている。字面を追えばそういう読みが自然であるが、銀河さんによれば「極限で似るものの家」は岐 阜県養老の滝付近のテーマパーク「養老天命反転地」の惹句とのことである。しかも前句「脳」から養老孟司を経ての連想だという。そんなこと言わなければい いのに。


 名残表は、引き続き暴れどころである。

ナオ 荷が着いて天地無用の大きな字      令

 前句「極限で似るものの家にて」が「養老天命反転地」の惹句であることが作者自身から明かされ、その由来の方から導かれた句ではあるが、句そのものを並べたときに「極限」に対し「天地無用」と字面が妙に可笑しい。

    走るときには走るペリカン       を

 前句を宅配便と捉え、ペリカン便から発想している。宅配便は黒猫、カンガルー、このペリカンなど動物や鳥のイメージキャラクターが多く、腕の見せどころであるが、ここではなんと走らせている。ペリカンがあわてふためいて不器用に走るさまを想像するとじつに可笑しい。

   アジトより黒の歌姫あらはれて      庵

 時代は学生運動のさなかにワープする。騒然としたなか、アジトから悠然と黒ずくめの歌姫が現れる。浅川マキのイメージか。

    眼窩のうづく黄色い太陽        り

 行為に耽ったあと太陽が黄色く見えると言われていたのも、そんな時代であったか。いったいアジトにこもって何をやっていたのだろう。黒に対して黄色で付けている。

   近づくに日本国旗のあざやかな      河

 寝不足で朦朧とした頭のまま近づくと鮮やかな日本国旗が見える。

    長い隊列麦畑ゆく           令

 それは長い隊列をなし麦畑を進軍している。

   梅雨冷に喇叭マークの薬瓶        を

 かと思いきや軍国的なイメージを無効化しおなかをこわしている。じつに飄逸な付けぶりである。

    元モガなれどいま二児の母       庵

 かつてモガだったのもいつのことか、生活に追われ今もまさに下痢の子どもの世話をしている。

   立秋をローアングルのカメラ這ふ     り

 その昔は颯爽と銀幕に映ったこともあったというのに。

    燕去る日の風に色なく         河

 ローアングルでヒロインを追う視線のような軌跡で燕が去って行く。ちなみに秋風のことを色なき風と言ったり、金風、素風などと言ったりするのは陰陽五行説に由来していて、詳しくは歳時記を当たられたい。

   枝折戸の鈴を鳴らして月の客       令

 そんな秋の日にひょいと枝折戸の鈴を鳴らして月見の客がやってきた。

    ブーケ・ガルニの香る厨房       を

 もてなしはなんのスープであろうか、厨房ではブーケ・ガルニが香っている。


 暴れどころの悪ふざけも静まり、名残裏である。

ナウ 万巻の書のしづけさに雪明り       庵

 ここ「みしみし」では「雪の座」とでも言うべきものを設けていて、名残裏に入るまでに一句も雪の句が出ていないと、捌き人が所望する。古来「雪月花」と いうことばもあるのに、標準的な連句の式目ではどうして月の座と花の座しかないのだろう。さて、折しも調理がクライマックスに達して芳香を放つ頃、灯を落 とした書庫には万巻の書が眠り読めるともなく雪明りに照らされている。

    燐寸を擦ればつかのまの暖       り

 書の文字を確かめたかったのであろうか。燐寸を擦れば、束の間暖かい。

   かつて街であつたあたりを撮りなほす   河

 以前街だった頃によく撮影したこの街は今は廃墟となっていて、寒さが身にこたえる。現在の姿をもう一度記録するのだ。

    軌道の跡に薄氷を踏み         令

 廃線の跡はでこぼこに水が溜まって薄い氷が張っている。春はまだ浅い。

   須呵摩提へといちめんの花筏       を

 須呵摩提(しゅかまだい)はサンスクリット語「スカーヴァティー」で、「幸福のあるところ」の意。水を流れるいちめんの落花はあたかも極楽へと続く軌道のようである。この美しくもどこか不吉さを内包する花の座のあとで、一体どういう挙句があり得るというのだろう。

    お江戸の春の美しき夕映え       庵

 そして挙句である。発句「お台場」を思えば、終焉を迎える江戸という町、時代の最期の黄昏の美しさなのだろうか。挙句から発句へと円環をなし、これにて満尾である。
 
 

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