2015年6月27日土曜日

緑陰の巻評釈

 評釈というか、捌き人脳内ビジョンです。

   緑陰にピアノのやうな男かな     苑を

 「ピアノのやうな」とは「ピアノの調べのような」なのか「ピアノという楽器のような」なのか。どちらで付けても残りの可能性を封じ込め、発句の味わいを 半分損なうことになる。こういう句は独立した「俳句」として鑑賞すべきなのだが、発句として出された以上、脇を付けねばならない。おおいに悩ましい。
 ところでピアノといえば、ピアニストが演奏旅行中に出会う初対面の人がじつはすべて昔から知っている人で人間関係がどんどん複雑になってゆくカズオ・イ シグロの不条理小説の題はなんであったか。あの不条理は、あえて打越を捨て去らない縛りを課した連句のようでもある(そんなものが存在するのならば、であ るが…)。

    祝辞さらへばどつと出る汗    ゆかり

 悩んだ結果、「ピアノという楽器のような」として脇を付けた。黒白の礼服に身を包んだ男が緑陰にいる。ここは結婚式場の庭園で、緊張しきって汗まみれになっては祝辞の練習をしている。披露宴まで時間が迫っている。

   匿名の葉書は風に飛ばされて      恵

 第三は発句と脇の世界とは別の、連句にとって展開の始まりである。人生の門出とは無関係な空間で、名乗るに名乗れぬ感情が吹き飛ばされて行く。

    角の垣根の朝顔の紺        媚庵

 飛ばされた葉書を追えば角の垣根の朝顔の紺が目に入る。

   十六夜のあけゆく橋を入谷まで    なむ

 遊び帰りに十六夜のあけゆく橋を渡れば、朝顔市で名高い入谷である。

    明治節だと言ふ指物師        を

 そんな入谷には、文化の日のことを意地でも「明治節」と言う年老いた指物師が似合う。


 暴れどころに突入する。

ウ  倶利伽羅を見せあふ仲と囁かれ     り

 頑固一徹な指物師であるが、若い頃には入れ墨を見せ合う相手がいた。

    琵琶の音色の届く灯台        恵

 しかし関係は長続きせず、片割れは楽士として灯台のある辺境に流れていった。

   昼の雪傘さしてゆく三姉妹       庵

 昼の雪が降る中、三姉妹が傘をさして行く。華やいだ雰囲気に転じている。

    茶々・初・江と銘す絵屏風      む

 三姉妹といえば、浅井三姉妹である。激動の時代にそれぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。その名を冠した三点ものの絵屏風なのだろうか。なんとも豪奢である。

   運命が扉を叩く音のする        を

 私にも転機が訪れたのだろうか、運命が扉を叩く音のする。

    猫のことばも次第に馴れて      り

 扉を叩いたのは猫だった。いっしょに暮らすようになり、このごろ猫がなにを言っているのか分かるようになってきた。

   小判型UFOに乗りお買物       恵

 猫といえば「猫に小判」だし「猫型ロボット」である。両方ぶち込んでしまうのもどうかと思わなくもないが、往年の西武のCMのようでもある「お買物」という言い回しが妙に可笑しい。

    光り物見る藤原定家         庵

 UFOといえば定家『明月記』である。「光り物」という言い回しがいかにも未確認飛行物体である。

   百人の首並べれば土匂ふ        む

 定家といえば百人一首であるが、ここでは殉死だろうか生き埋めにしてしまった。しれっと付けた春の季語「土匂ふ」がなんともブラックである。

    ひと夜ふた夜と鳴るかざぐるま    を

 そしてひと夜ふた夜と時間が経過する。かざぐるまが鳴るさまは無常である。前句の百を受けているのであるが、すでに「十六夜」「三姉妹」があるので、連句の進行上その後、行くところまで行くことになる。

   干満に委ねあしたの花筏        り

 花の座であるが、前句が夜なので朝としている。海が近いこのあたりではゆうべの花筏が汐の満ち干で戻ってくる。

    空へ突き刺す舵の竹竿        恵

 船頭が操る竹竿は、見ようによっては空へ突き刺すようである。


 名残表である。さらに暴れまくる。

ナオ 鉄柱にヒール・レスラー雄々しけれ   庵

 前句からイメージを借りて、リング上で華々しく散る悪役レスラーの雄渾さを詠んでいる。

    やがて消え去る霊と思へず      む

 発句のところでちょっと触れたカズオ・イシグロの不条理長編小説の題は『充たされざる者』なのだった。別に打越にかかるわけではないのだが、無常観とも死生観ともいうべきものが、今回の巻では絶ちがたく現れる。

   とことはにウヰイルキンソン炭酸水   を

 そのあたりの機微を捉えてのことだろうか、「とことはに」が妙にはまっている。

    角瓶を割る年増の女         り

 炭酸といえばハイボールであるが、サントリー角瓶の広告は、小雪→菅野美穂→井川遥と続いているのだったか。前任者と比較するわけでもないのだが、なんとも年増女の妖気を感じる。

   池袋駅の地下街彷徨ひて        恵

 年増→豊島区という駄洒落で池袋駅が導かれているわけであるが、池袋はそんな妖艶な女が彷徨っていそうである。

    捕物帰りの半七に逅ふ        庵

 なぜここで半七なのかはじつは分かりませんでした。分からないけど、時空を超えた彷徨感が心地よいじゃありませんか。

   筋になき十手を要す詰将棋       む

 捕物といえば十手がつきものだが、ここではひねって将棋の手数としている。またしても数字の連鎖が絶ちがたく現れる。

    寝ても覚めても考へてゐる      を

 手筋を大長考しているのである。

   地下鉄の車庫の近くを秋の風      り

 春日三球・照代の「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」を踏まえている。四句前に「池袋駅の地下街」があるのだが、またしても絶ちがたく現れる。

    山河を越えて迫る虫の音       恵

 地下鉄の車両基地がある中野富士見町あたりの土地の起伏を思う。が、句は現実を離れ「虫の音」が迫る。

   見あげればアポロの頃と同じ月     庵

 月の座である。地形的に見上げるしかないのだが、そこに人類の進歩と調和が信じられていた頃と同じ月が見える。ふと安倍仲麿の歌を思い出す。「天の原ふ りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遣唐使の仲麿が唐の地で故郷と同じ月を詠むという、空間を超えた「同じ月」であるのに対し、こちらは時間 を超えた「同じ月」である。そんなことを思い出すのは、初折裏八句目の「光り物見る藤原定家」のせいだろう。またしても絶ちがたく現れる。

    ジュール・ヴェルヌも太鼓判押す   む

 ヴェルヌの『月世界旅行』は読んだかも知れないが、忘れてしまった。ある種のハードSFはのちにそのまま現実になる。「太鼓判押す」が絶妙である。
 


 名残裏である。しらふにかえり大団円に向かう。

ナウ 棚隅に表紙の取れた和佛辞書      を

 えっ、子どもの頃読んだという話ではなく、原書なの、という意外な展開。

    四つ五つは口語自由詩        り

 まだ出ていない数字をこの際全部使おう、という方針を名残裏にして打ち出す。ひどい捌き人である。人は誰でもヴェルレーヌだランボーだと口走り四つ五つは口語自由詩を詠んだ黒歴史がある。

   杉桶の八ツ目うなぎを掴めずに     恵

 口語自由詩? そんなもん、うなぎに聞いてくれ。

    由来不明の涅槃図を吊る       庵

 得体の知れぬ涅槃図にはちゃんとうなぎもいる。

   対岸にけふ九重の花莚         む

 対岸というのは、涅槃図の外の現実世界ということだろうか。折りたたんだ筵を平らにのばして花見が始まる。このようにしてまたしても百人一首が絶ちがたく現れる。数字のノルマは達成。

    小径をゆけば囀りの中        を

 そして、小径をゆけば囀りの中である。脇は発句を「ピアノという楽器のような」と読んで発句の味わいを半分捨てたわけだが、挙句は捨てた方の「ピアノの調べのような」に向かって円環をなす。さすがである。
 

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