俳句の世界だけで考えても時代背景が理解できないので、たまたま手許にある山川の日本史の教科書(『新詳説日本史 改訂版』1993)を参考にすると、
1592 文禄の役(文化的には朝鮮より活字印刷が伝わる)
1603 家康、征夷大将軍
1635 参勤交代(などによる幕府の国内支配安定化)
1639 鎖国の完成(ポルトガル船来航禁止)
という流れの中で、
■政治の安定と経済の発展を背景に、5代将軍綱吉(1646~1709)の元禄時代が展開した。この時代には農村における生産の発展を基盤に、都市では新興の商人が活躍し始め、武士や町人が元禄文化とよばれるはなやかな都市文化を開花させた。
となるのですね。
◇元禄文化を特色づけるものは、上方を中心に隆盛をみた町人文芸であった。それを代表するのが井原西鶴(1642~93)・松尾芭蕉(1644~94)・近松門左衛門(1653~1724)である。
西鶴は大阪の町人で、はじめ俳諧で才気をうたわれたが、やがて浮世草子とよばれる小説に転じた。彼は現実肯定の立場から「浮き世」の世相や風俗を描き、町人が愛欲や金銭への執着をみせながら、みずからの才覚で生き抜く姿を赤裸々に写しだした。
同じころにでた芭蕉は伊賀の武士出身で、西山宗因(1605~82)のはじめた談林風の俳諧が奇抜な趣向をねらうのに対して、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風(正風)俳諧を確立し、自然のなかに人間をするどくみつめた。また連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた。芭蕉は各地に旅をして地方の武士・商人・地主たちとまじわり、『奥の細道』などのすぐれた紀行文も残した。
つまり、世の中に余裕ができて町人に俳諧が拡がって、その中に西鶴や芭蕉がいて、西鶴は他のジャンルに転進して成功し、芭蕉はとどまって成功したということなのでしょうか。それにしても350年も前の話なのですね。ゆかり的には、奇抜な趣向をねらう談林というものに興味津々です。
この国を花冷えといふ気団かな ゆかり
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