2006年4月4日火曜日

俳諧人口の増大

 『初期俳諧集』の巻末に「初期俳諧の展開」という解説があり、その中に「俳諧人口の増大」という章があります。

 専門俳諧師の誕生は、俳諧人口の増大に応ずるものであった。すなわち、俳諧作者の階層的拡大と俳諧の地方への普及とが、俳諧の指導を糊口の道とする職業人(プロフェッショナル)を生み出したのである。

 (中略。連歌と俳諧は別の作者によるものではなく、連歌の座がそのまま俳諧の座へ横すべりしたことと、このときに同じ階層の連歌を嗜まない人々をも俳諧に巻き込んだことの説明。)

 俳諧人口の増大は、俳諧の地方への普及によって支えられていた。それは撰集への入集状況にはっきりとあらわれている。

(中略。貞門前期の主な撰集への入集者数を国別に整理した図が、寛永十年から明暦四年までの推移を示す。)

 こうした現象はおそらく貞門俳諧の中央集権的なありように風穴をあけるものだったにちがいない。 

 なんだかマーケットを地方に求めるあたりが列強の植民地政策みたいですが、この時代、このようにして劇的に俳諧は町人に広まっていったのですね。談林が台頭してくるのはこの後です。変なところに感動して、なかなか中身の話になりませんが、『俳句の歴史』の方はいま芭蕉のところをずっと読んでいて、元禄二年までたどり着きました。

帯電する桜並木や遅刻坂 ゆかり

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