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2017年9月1日金曜日

「鏡」二十四号を読む

  春陰や山のかたちに伊豆の石    大上朝美
 これはひょっとして清澄庭園ではないか。清澄庭園は庭の石のいちいちに産地が明示されていて、吟行時に大いに興味をそそられる。「山のかたちに」という措辞により、それなりの大きさを持った火山由来の巨岩を思い浮かべることができる。

  一つ岩亀と分けあひ鴨帰る
 季語である「鴨帰る」が面白い味わいを出している。こう詠まれると、単に眼前の光景に留まらず、その鴨が日本にいる冬の間ずっと一つ岩を亀と分けあっていたような気がしてくる。

  判子屋に苗字の増える四月かな
 就職や人事異動の時期である四月は判子屋にとって、まさに書き入れ時であろう。それ以外の時期は買いに来る客がいるわけでもないので、ある苗字が売り切れても特に補充したりしない。その現金さがユーモラスでさえある。

  川幅に橋おさまらず枯葎      越智友亮
 ある程度の大きな川であれば、水害に備え両岸の堤にはさまれて河川敷が広がる。川によっては流れている川幅と同じくらいの河川敷が両岸にあったりもする。電車に乗っていると、流れている川を渡ったのにまだまだ続く鉄橋になんとも言いようのない感じを味わうことになるのだが、「枯葎」がそのあたりを適切に言い表している。

  人体に落ち着く腸や水温む
 海鼠腸のようなものでもソーセージのようなものでもいいのだが、口外から摂取する腸類が自身の腸に収まり栄養として消化吸収されてゆく。詠みようによってはグロテスクになりかねない素材であるが、うまくまとめている。生命感を感じさせる「水温む」も妥当だろう。
 
  うららかに床屋は床を掃きにけり
 同じ漢字を自然に「とこ」と読んだり「ゆか」と読んだりする不思議を興じているようにも感じられる。

  春浅し春の終りを思ふとき     佐川盟子
 単に気分のずれなのか、それとも北国などの地理的事情があって「暦に従って春の終わりを詠嘆したいものだが、この土地の現実の季節はまだまだ早春だ」という文意なのか。いずれにせよ、リフレインを生かし現実と気分でずれた季節を詠んでいる。

  毛を除けて仔犬に目あり夜の雪
 犬の種類はぜんぜん疎いのだが、村山富市元首相の眉毛のような犬のことだろう。「夜の雪」という季語の選択が絶妙である。

  木に鳥をあつめて散らす雪解光
 木に集まった鳥を散らしたのはどさりと落ちた残雪であろうが、残雪そのものを詠むのではなく「雪解光」としたところが手柄で、動から静へ戻った間合いの取り方がすばらしい。鳥が一斉に飛び去った後の静寂がきらめいている。

  昼酒のゆつくりまはる花の雨
 ほんとうは筵の上で飲むために用意した酒なのだろうか。「ゆつくりまはる」に予期せず訪れた時間の流れを感じる。

  蝶の翅まで竜巻を巻き戻す
 βだのVHSだの言っていたものが普及したのはもう三十年以上前のことで、それから方式はデジタルに変わり、しかし「巻き戻す」というテープ時代の用語は今に受け継がれた。そして時間軸を逆に進むという感性もその頃に獲得され、ものの見方のひとつとして、これもまた今に受け継がれた。「蝶の翅が竜巻を起こした」ではなく、リモコンの左向き三角ボタンを押す感覚の「巻き戻す」が、じつによい。

  豆撒の豆を迷ひに迷ひ買ふ    笹木くろえ
 伝統を大切にしたい気持ちと、でも撒いたら掃除しないといけないし、という気持ちで誰もが迷うわけであるが、マ音をこれでもかと四回「豆撒の」「豆を」「迷ひに」「迷ひ」と頭韻でたたみ掛け一句に仕立てるあたりの力業はさすがというべきであろう。

  観梅といふは青空愛づること
 これが桜であれば大気が水分を含んでもやもやっとなるところ、梅の開花時期にはまだ寒気も残りじつに青空がくっきりとして紅梅にせよ白梅にせよ絶妙のコントラストとなる。掲句、身も蓋もないというか、それを言ったらおしめえよなのであるが、まあ、そういう句があってもいいだろう。

  税務署の桜からまづ満開に
 桜にも税務署にも罪はないのだが、つい「そりゃ私たちの血税で育ててるんだから真っ先に満開にもなるでしょうよ」などと理不尽ないやみのひとつくらい言いたくなる(いや、ならないか…)。「税務署」がじつにいい味を出している。

  残雪をなめてながるる雲の影
 作者は飛行機にでも乗っているのだろうか。「なめて」が地表の起伏を感じさせるのだが、残雪だけにアイスクリームのイメージもあるのかも知れない。

  春眠と臍の緒で繋がつてゐる
 奇想である。臍の緒で繋がつてゐるって、母は春眠の方なのか、作者の方なのか。仮に前者とするが、春眠の胎内で春眠から栄養を送られながら健やかに眠っているイメージ。春になると眠いのは、胎内回帰願望だったのだ。後者だとどうなるのか…。春眠の母であればもとより眠いことはあきらかであろう。

  曲水や呼ばれて助詞の違ふ声    佐藤文香
 珍しいものを詠んだものだ。曲水はかつて宮中や貴族の邸宅で行われた遊びで、上流から流される盃が自分の前を通り過ぎるまでに歌を作り、盃の酒を飲むのだという。一連の所作の中で名を呼ばれるのかは知らぬが、やんごとなき方々の、違う言葉遣いによる素っ頓狂な声が聞こえてきそうである。

  上から見る自動車学校夕桜
 限りある敷地内に教習の目的を果たすために設置された直線道路、曲線道路、段差、横断歩道、踏切などが、高いところから一望できるのだろう。それだけでもかなり面白いものであろうが、夕桜の頃ともなれば、自動車学校内の模擬信号機の点灯する青黄赤が遠目にひときわはっきり見えることだろう。

  立春大吉馴染みがたきは己が歳   谷 雅子
 ある年齢を過ぎると還暦とか古希とかは数えで祝う向きもあるので、ますます正月に年齢を思うことも多くなるだろう。それにつけても、まこと馴染みがたきは己が歳であることよ。

  交通会館地下にポンカン晩白柚
 物産展でもあったのだろうか。ポンカンは分かるが晩白柚はまったく馴染みがなく調べた。ザボンの一品種で、晩生(晩)、果肉が白っぽいこと(白)、中国語で丸い柑橘を意味する柚に由来する由。「館」「ポン」「カン」「晩」と撥音でたたみ掛け、かごに一杯柑橘類を並べた売場の勢いが感じられる。

  料峭や使はぬ部屋に使はぬ椅子   羽田野令
 使わぬ部屋には二種類あって、単に収納空間としてがらくたというがらくたを詰め込む場合と、なんらかの事情で部屋の主が不在だが、主が戻って来さえすればいつでも使えるように現況をまったく変更しない場合がある。この句はもちろん後者だろう。「料峭」によって主が不在の部屋の空気感が表現されている。

  草生から肺腑へ低く波がしら
 「草生」は草の生えているところ。「草生から肺腑へ」と脚韻を踏みつつ恐ろしくローアングルで視点を移動するが、この肺腑は一体人間の肺腑なのか。この一句前は「水木しげるの水を浮かんでくる蝌蚪よ」。であれば泥水すすり草を噛んだ水木しげるの戦争体験を下敷きとしての句なのかも知れない。

  佐保姫の真顔や万華鏡覗く     八田夕刈
 佐保姫は春の女神であるが、意外と春を発生させるメカニズムは知られていない。八田夕刈博士の最近の研究によれば、佐保姫は偶然性の要素を取り込み、万華鏡から霊感を得ていたという。また「佐保姫」「真顔」「万華鏡」と頭韻を揃えることも、春の発生にとってきわめて重要とされる。
 
  口中は狭しうぐひす餅ふふむ
 うぐいす餅はなかなか微妙な菓子である。なにしろうぐいすの外観をなぞらえているのだから、皿の上で切開することははばかられる。いや、そもそも餅菓子なので上手に切ることは困難だろう。かくして一気に頬張ることになり掲句なのだが、「うぐいす餅がでかい」ではない。「口中は狭し」である。なんとも言えぬ、品が感じられるではないか。また、「うぐひす」「ふふむ」という平仮名表記からは、うぐいす粉をまぶしたくすぐったい食感までも感じられる。

  春愁や傘の柄に顎乗せてをり
 駅のベンチとか病院の待合室とかだろうか。中七下五から伺い知れるのは、出先であること、長い傘を持って出るほどの雲行きであること、あまり人目を気にしなくていい空間であること、である。それだけの条件を整え、満を持して上五に置いたのが「春愁や」である。

  ときどきは本名で呼ぶ春の雨    村井康司
 俳人ならば本名のほかに俳号があり、大抵の場合、俳号で呼び合う。だが掲句を俳人固有のならわしに矮小化して読む必要はないだろう。いつもは本名ではない呼び名(あだ名、おい、…)で呼ぶ相手を、ときどきは本名で呼ぶTPOの使い分け。そのときに頭をよぎる、本名ではない呼び名やそれにまつわる歴史へのちょっとした含羞。春の雨がそんなものをやさしく包んでいる。

  霧しづくスーツケースが動いて来る 寺澤一雄
 立っているだけでびしょびしょになるような深い霧なのだろう。がらがらと車輪が音を立ててスーツケースが近づいてくるが、かろうじて目に見えるのはスーツケースばかりで、それを押す人の姿は霧によって遮られている。

  冬キャベツ古き地球の表面に
 キャベツには春キャベツと冬キャベツがあるらしい。検索してみると冬キャベツは、楕円形が多い、葉の隙間が少なく詰まっている、葉が分厚い、二月頃が一番甘く美味しい、という特徴があるという。掲句、「冬キャベツ」から頭韻で導かれた「古き地球」がじつによい。春キャベツと冬キャベツの差異など、長い地球の歴史にとってはまったく表面上の些末なことに過ぎない。些末なことに過ぎないが、そのようにして私たちは生きている。

2017年6月4日日曜日

『鏡』二十三号を読む

  マフラーの渦ワッフルの香を運ぶ  笹木くろえ
 勢いのある句である。「マフラーの…」「ワッフルの…」という外来語のたたみ掛けがそう感じさせるのだろうか。「フラ」「フル」という響きの繰り返しがいいのかも知れない。「マフラーの渦」がなんともエネルギーの場を感じさせる。

  大丈夫のなかにある嘘冬苺
 『鉄腕アトム』に「うそつきロボットの巻」というのがある。ロボットは本来本当のことしか言わないのだが、余命幾ばくもない老人の介護のため、わざと回路を逆にしたロボットが騒動を起こす印象深い作品である。そんなものを引き合いに出すまでもなく、老人や病人に直面した場合、私たちは嘘をつく。良心は冬苺のように酸っぱい。

  参加者を聞いて欠席闇汁会
 ほんとうの闇汁会を知るはるか以前に私は『巨人の星』で刷り込まれてしまった。漫画の話ばかりで恐縮だが、青雲高校の伴宙太が主催した闇鍋は、料理の煮えた鍋に部員めいめいが持ち寄った下駄やエキスパンダーをぶち込むのだった。伴宙太の闇汁会なら私も欠席したい。という話はさておき、微妙な感情のしこりというのはある。特に俳句のつながりというのは、俳句の作風の相性で広がってゆき、気がつくと職業も信条も生活水準もまったく異なる人と句座をともにしていたりする。俳句を作るのでなければ遠慮したいこともいろいろあろう。

  外套を外套掛けのやうに着る    村井康司
 「外套」「外套掛け」というリフレインで読ませる作りになっているが、そもそも「外套掛け」ってどんなものだろう。真っ先に思い浮かべたのは、身の丈ほどの棒の先が放射状になっていて、外套の首のところだけ引っかけるようなもの。これだと肩はだらりとなる。であれば「外套掛けのやうに着る」とは袖を通さずにぶかぶかの外套をだらっと羽織ることなのか。もしかすると男物の外套を痩身の女性が羽織っているのかもしれない。

  大寒のバリトンサックス少女隊
 バリトンサックスは首の前で管が一巻きしてあって、見るからに肺活量が要求される。それを少女が吹くのであれば不憫で悲壮なビジュアルが現出する。ましてや隊である。ましてや大寒である。

  新春の早口言葉しやししゆしえしよ
 「新人シャンソン歌手による新春シャンソンショー」みたいなものだろう。平仮名表記の「しやししゆしえしよ」がなんだかくすぐったい。

  ろくじうのてならひとして日向ぼこ
 同じようなものだが、旧仮名表記の効果を知り尽くした「ろくじうのてならひ」と「日向ぼこ」というオチのばかばかしさがじつに楽しい。技巧の垂れ流しっぷりがすばらしい。

  凍星のぐらつく乳歯心地かな    越智友亮
 乳歯が抜ける直前のぐらつくもどかしさの身体感覚の記憶と現在の不安定な心象を重ねたものだろう。現実とほど遠い理想のような「凍星」も効いているし、「ぐらつく」「心地」のG音の頭韻も効いている。

  ペン二本あひだに二物年詰る    大上朝美
 俳句などやっているとつい二物といえば二物衝撃を思い出してしまう。そのような習性をついて「二本」「二物」とたたみ掛けて下五に季語を置いている。「二物」はこの場合、二物衝撃には関係なくて、コップでも消しゴムでもいいのだが具体的に示す必要のない、採るに足らないものであろう。そのような眼前のありようというか空気感が、なんとも年の瀬だ言っているのである。

  思ふこと言はねば忘れ枇杷の花
 何人かで話をしていると、自分が口を開くタイミングを見計らっているうちに、言いたかったことを忘れてしまうことがある。枇杷の花もどこか忘れられてしまった感があるので、響き合っている。ところで人間、歳をとると、言おう言おうとタイミングを見計らっていた状態なのか、すでに発言した状態なのかが分からなくなって、同じことを何度でも何度でも言うようになる。その段階に進んだ俳句もいずれ拝見したい。

  去年今年グーグルアースいつも昼  佐川盟子
 グーグルストリートビューは、十一個のカメラを取り付けた球体を載せた車両で撮影し、その写真を縫い合わせるようにして三百六十度のパノラマにしているらしい。とはいえ、パソコンで地球外からだんだん拡大して迫ると、ついまさに今の時間の映像が見えるような錯覚を抱いてしまう。「いつも昼」はその錯覚をついて巧いこと云ったものだし、「去年今年」もばかばかしくてよい。しかしながら、二十四時間いつもまさに今の時間の映像が見えたら、それはそれで怖い。

  ふゆといふとき唇のふたしかに   八田夕刈
 外国語など習わなければそんな感覚を獲得することはなかったのかも知れないが、日本語のハ行、とりわけ「フ」の発音は難しい。ネットによれば、日本語の「フ」は、無声両唇摩擦音というもので、fの無声唇歯摩擦音ともhの無声声門摩擦音とも異なるらしい。その辺の微妙な感じを掲句は平仮名表記の駆使により言い止めている。

  暁光の身のまつさらに初湯かな
 なぜそんな時間に入浴しようとしているのか事情は定かでないが、新年のあらたまった気分を感じる。

  有りつ丈の雪撒くといふ空の色
 これは今、雪は降っているのだろうか。眼前に雪が降っているのなら空の色など触れないと思うし、これから降るのだったら「有りつ丈の」という措辞は得られないだろうとも思う。降りが小休止した状態で空の様子を見て詠んだのではないか。

  冬木立の向かうの方へ人を置く   羽田野 令
 絵とか写真とかの構図決めの場面だろうか。生活者ではなく美のための駒に過ぎない感じの「人を置く」がよい。

  親族のなまあたたかし松の内
 松の内くらいしか会わないような親族なのだろうか。ちょっとめんどくさい気分も「なまあたたかし」からは感じられる。

  満潮の小春の島へ着きにけり    谷 雅子
 ことさらに潮位に触れているのは、引き潮の時だけ歩けるとか満ち潮の時の水没し具合がうつくしいとか、いわくがある名所なのだろう。小春がなんとも穏やかな気分である。

  家族として撮られに並ぶ梅の花   佐藤文香
 照れくさくってなどと逃げ回っていても、人生の節目には家族写真に収まっておくものである。「梅の花」からは、未来のある幸福を感じる。

  どんぶり一杯の蝦蛄どんぶり一杯の殻に 寺澤一雄
 殻を剥く前の蝦蛄と、剥いたあとの殻とが、かさとして全然変わらないことに興じて句を仕立てたものだろう。

  船で来て乗る鉄道や残る菊
 途中で手段が変わることを詠んだ一雄句としては『虎刈』に「クロールで行きて帰りは平泳」があり、跋文の辻桃子を絶句させている。なんとも寺澤一雄的な句風である。

  体育館ほどに大きな家の夜業
 間仕切りの少ない農家のような空間を想像すればよいのだろうか。人間が小さく見えるだだっ広い空間の中で夜業にいそしんでいる。「体育館ほどに」の誇張が楽しい。

2017年2月12日日曜日

『鏡』二十二号を読む

  
  顔面を西日のなかに美中年     佐藤文香
 強打したり神経痛になったりするときに使うような「顔面」という言いっぷりと、「美少年」なら聞いたことがあるけどと?が駆けめぐる「美中年」の組み合わせが絶妙に可笑しい。
  
  アルゼンチンタンゴの脚や曼珠沙華 羽田野令
 曼珠沙華という植物はほんとうに不思議なもので、毎年秋の彼岸頃、急激に花茎が成長して花を咲かせる。一抹の不安をも感じさせる華麗な花と、細く長い花茎のアンバランス。タンゴダンサーの赤いドレスのスリットからあらわに覗く脚に連想が飛躍する。植物自体を即物的に捉えると、同じ号の「ふいに現れ茎すくすくと曼珠沙華 谷雅子」となる。
  
  かなしかなし十字懸垂秋澄めり   谷 雅子
 どこかイエス・キリストの十字架を思わせるのか「かなしかなし」と重ね詠嘆する過剰な出だしに対し、下五「秋澄めり」でぴっしりと着地を決めている。
  
  儚さは蜉蝣の名のつきしより    八田夕刈
 「分かる」とは本来「そのものを他と区別できる」ということが転じて「理解できる」という意味で普通に使われるようになった、と、どこかで読んだことがある。私たちの目の前にある蜉蝣はただの物体ではなく、名付けられることにより他と区別され、文化を身にまとった存在である。そのようにして蜉蝣は儚い。
  
  家々の天井裏の夜長かな      八田夕刈
 「天袋よりおぼろ夜をとり出しぬ 八田木枯」が頭をよぎるが、掲句は「家々」と複数であるのが面白い。どの家にもそれぞれの天井裏がある。築五十五年の我が家は夜ごと鼠が駆け回るし、集合住宅の人にとっては天井裏は上の世帯の床下なので、別の思いがあることだろう。そんな家々である。
  
  右利きの手暗がりなる秋深し    八田夕刈
 状況は分からないが、左利きのためにしつらえられた空間にいて、その空間の主を偲んでいるのかも知れない。「秋深し」に寂寥感がある。
  
  塩味の生物を切る夏料理      東 直子
 何とは言わずに「塩味の生物」と詠んでいる。料理をしていると、たまに「なんだか当ててごらん」という気分になることがあるが、それをそのまま句にした趣がある。
  
  観覧車つりあげられて月淡し    東 直子
 観覧車の全体を思い浮かべると変なことになるが、ひとつひとつの人間が乗るゴンドラ部分のことだろう。「月淡し」と取り合わせたことにより、帰還するかぐや姫が頭に浮かぶ。
  
  栗焚いて親子電球灯しけり     村井康司
 「親子電球」とは懐かしいものを出してきた。遠い記憶を辿ってみると、親球のみ灯る/子球のみ灯る/両方灯らないの切替だったような気がするのだが、「親子電球灯しけり」とはどの状態だろう。「親子電球」とはこの場合、時代の提示であって、よほど暗くなるまで電気を点けなかったあの時代の親球のみ灯したところではないか。
  
  晩秋やひだりの脚に赤い靴     村井康司
 こう書かれると「みぎの脚」はどうなっているのだと、俄然気になるが、一句前が「マヌカンの脚抱いてゐる無月かな」なので、靴を履いているところのマヌカンか何かなのだろう。

  流星とメートル螺子とインチ螺子  大上朝美
 家具などで、国産品はメートル規格、輸入品はインチ規格であるため、自分で修理する場合など面倒くさいことになることがある。「メートル螺子とインチ螺子」はいいのだが、眼目は「流星と」の「と」だろう。この「と」によって三者が対等な関係となり通常の読みを不能としている。作者は地球外生物も軽々と想定内においているに違いない。
  
  秋蝶の筋肉あなどれぬちから    大上朝美
 前々号にも「石を摑み木へとあをすじあげはかな 佐藤文香」という句があったが、知らないのは私だけで、じつは蝶は怪力だったのかも知れない。俳句は読者の意識を変革する。
  
  掃除機に床は叱られ夏のくれ    越智友亮
 あれは叱られていたのか。確かに床は棒で小突き回される。ばたばたと夏が暮れて行く。
  
  秋蝶と魚のあひだに射す光     笹木くろえ
 眼前の光景から「秋蝶」と「魚」のふたつを取り出すのは、じつに大胆な選択だろう。空を飛ぶ秋蝶と水中の魚の間にはほとんどすべてのものがある。そのほとんどすべてにあまねく秋の光が射している。厳かである。
  
  実石榴の家へ入って行く背中    笹木くろえ
 「実石榴の家」と言えば築五十年以上と断定していいのではないか。そしてその家に入って行くのは慎ましやかな老人と断定していいのではないか。決してジャージの若者の背中などではないはずだ。
  
  平面の立つ望の夜の石切場     笹木くろえ
 地殻の変動によって垂直となった地層が月下、静謐にしてこの世のものならざる幻想的な様相を呈しているのだと読んだ。日中は重機も音を立て人が行き交う活気ある現場なのだろう。
  
  窓の隅洗ひ残して颱風過ぐ     笹木くろえ
 「洗ひ残して」がよい。日頃は掃除など行き届かない老朽家屋の台風一過を感じる。
  
  一匹のまづ一本のくもの糸     佐川盟子
 蜘蛛の巣は巣のかたちをなしてからも主は一匹だと思うが、あえて「一匹の」から始めたところが面白い。天井から下がってきた蜘蛛だろうか。
  
  日盛の車の下を覗く尻       佐川盟子
 点検とか鍵を落としたとかで、上半身を腰から折って車の下を覗いているのだろう。そんなとき尻は無防備に残る。そして日盛ともなれば着衣は薄いひらひらのものだろう。そんな情景を即物的に切り取るのは意外と難しいかも知れない。
  
  古戦場売りに出てをり合歓の花   佐川盟子
 古戦場であろうとお構いなしに現在の住人がいて、いろいろな事情により売りに出されるのだろう。「合歓の花」との取り合わせは、感情も批評も押しつけず適切である。
  
  たてに読み横に書く文よるの秋   佐川盟子
 この原稿を書いている私が今まさに直面しているのだが、縦書きで印刷された俳句について、パソコンで横書きに感想文の原稿を起こしている。ところで校正のプロはなまじ文章として読めてしまうと見落としが発生する懸念があるのでわざと後ろから読んで、もとの原稿と突き合わせをしたりするらしい。そうすると、下から読む原稿と、右から読む打ち込まれたものを照合するのだろうか。そんな作業は「よるの秋」くらいの落ち着いた気候の中で行いたい。
  
  肉を切る刃物ときどき西瓜切る   佐川盟子
 私自身は肉も野菜も同じ菜切り包丁で切っているので違和感はないのだが、使い分けている人は違うものを切るときに軽い罪悪感を覚えたりもするのだろう。そんなことが垣間見える。
  
  便乗の男を降ろす夏野原      寺澤一雄
 便乗したのは旅慣れた山男なのだろうか。そんなところに降ろしてどうするんだ、という夏野原の真ん中で男は「あ、この辺でいいです」と言ったのだろう。

2016年11月5日土曜日

『鏡』二十一号を読む

  夕涼し男女の坂は交わらず     越智友亮
 しばしば登山道や参道の勾配で急坂を男坂、ゆるい坂を女坂と呼ぶが、その両方をまとめて「男女の坂」としたのが手柄だろう。男坂と女坂は交差しないという当たり前のことを敢えて句にした面白みに留まらず、恋愛をテーマにした句群の中においては「男女の坂は交わらず」が曰く言い難く効いている。

   肝臓の仕事思えば金亀子     越智友亮
 摂生のことか何かを考えていたのをひっくり返す下五の脈絡のなさがいい。昨今はどの家にもエアコンが当たり前になってしまったが、昔はカーテンの裏の窓の隙間から金亀子は思いがけず飛び込んでくるものだった。そんな時分を懐かしく思い出させる下五である。

  手のひらは甲に逢わざる晩夏かな  越智友亮

 手のひらと甲は表裏の関係なので、掃いて捨てるほどある「当たり前の事実+季語」のパターンではあるが、これも前々句同様恋愛をテーマにした句群の中においてはなんとも切ない。

  パンタグラフ開いて通す青葉風   佐川盟子
 開いてなくてもその上を風は通っているはずだが、菱形に開くことによって、目には見えない風をそこに見てとる人の不思議がある。青葉風が心地よい。ところで昨今はシングルアーム型とか翼型のパンタグラフもあって、それはそれで催す感興が異なるだろう。どんな新しい句が生まれるものやら。

  午後五時を告げる音楽あすは夏至  佐川盟子
 ゴゴゴジ、ゲ、ガと濁音をたたみ掛け、季語も濁音の連鎖が呼び込んだものだろう。現実界の郷愁を誘う「家路」とか「夕焼小焼け」の調べとはまったく感触のことなる、異界ともいうべき句に仕上がっている。

  夏館配電盤に木の扉        佐川盟子
 ニス塗りの木の扉を開けると陶製の安全器が数個ビス止めされているのだろう。ひょっとすると廊下辺り、見えるところにむき出しで碍子や経年変化した電線が走っていたりもするのかも知れない。レトロ俳句である。

   中心をろくろに探る夏の雨    佐川盟子
 「中心をろくろに探る」の助詞「を」「に」がなんとも適切である。ひとことも言わずに濡れた粘土を感じさせる「夏の雨」もまた絶妙である。

  トランペット吹く梅雨空を歪ませて 笹木くろえ
 「梅雨空を歪ませて」になんとも初心者の鬱屈した心情が感じられる。小音量では練習にならず、大音量が出せる場所は河原などに限られ、楽器のコントロールもままならない恥ずかしい大音量が世界を歪ませている。もし仮にトランペットは吹くのが当たり前だから「吹く」はいらないなどと添削してしまったら、作中主体の鬱屈した心情は消滅し、マイルス・デイビスの沈痛なサウンドのような世界に一変してしまうだろう。

  これからといふとき胡瓜ねぢまがる 笹木くろえ
 胡瓜は株が老化して根の活性が落ちると、先細りや曲がり果が増える。そうならないよう、株が小さいうちはわき芽・花芽を摘み、根茎を充分に発達させておく必要がある。

  夏桑や地図から消えし村の空    笹木くろえ
 ダム建設による水没などで土地そのものが消滅したのか、市区町村の統廃合で自治体としての村が消滅したのか。前者なら夏桑は記憶の中のものであろうし、後者なら実景だろうが、いずれにせよ空は変わらずそこにある。

  桜の実薬買ふ人ここで待つ     佐藤文香
 季語から想像されるのは屋外なので、車で乗りつける密売人を待っている非合法薬物取引現場なのだろうかと妄想はあらぬ方へ向かう。しかも次の句は「兄弟の腕冷えてゐるジギタリス」である。仁義を交わした男たちが互いの腕に注射を打ち合うのだろうか。

  石を摑み木へとあをすぢあげはかな 佐藤文香
 蝶が花でも葉でもなく石に止まることがある。揚羽ともなれば羽は石より大きいので、浮揚する刹那、ついそのまま石を摑んで行くような妄想が広がる。

   友情や水着のごとく花カンナ   佐藤文香
 友情なんて言葉が出てくるときは、まず破ったり破られたりする事態に直面しているのだろう。「水着のごとく花カンナ」が激情的かつ官能的である。

  鼻撫でし手のひらやさし夏の馬   谷 雅子
 「夏の馬」の前で切れているので、<私の鼻を撫でたあなたの手のひらがやさしい。眼前の夏の馬のように私の心が駆けている>という読みが順当だろうか。でもどこか、馬が人間に対して詠んだ句のようでもある。季語が動物だと、ときどきそんな可能性が出てくる。

  遅き日の過去の映画の予告編    羽田野 令
 「遅き日」という俳句ならではの言い回しの季語を用い、「過去」「予告」と時間軸で揺さぶりをかけて興じている。

  山滴る流れはずいと湖心曳き    羽田野 令
 不勉強にして「山滴る」は初めて見た季語である。「滴り」とは異なり、「夏の山の青々とした様子をいう」のだそうだ。そんな中、川の流れがずいと湖心を曳くという漫画のような着想が楽しい。

  葛ざくら水のゆらぎを皿の上    八田夕刈
 葛ざくらのぷるぷるした質感や透過性を「水のゆらぎ」と的確に捉えて過不足ない。見事な写生句である。

  プールの底一直線に歪みをり    八田夕刈
 「歪んだら直線ではないではないか」というあたりを敢えてそのように詠んだところに可笑しみがあるとともに、じつにその通りだと思う。

  クロールの素顔真顔と入れかはる  八田夕刈
 一定のテンポで顔を水中に向けたり横に向けて息継ぎしたりするさまを詠んでいるわけだが、「素顔」「真顔」というもともとの言葉が、おそらく一緒に並べることなどあまりないものなので、なんとも言えず可笑しい。水中が素顔で、息継ぎが真顔なのだろうか。言葉の意味をあらためて読者に問いかける仕上がりとなっている。

  食べこぼす朝は八時の冷奴     村井康司
 かつて俳誌『恒信風』の連載記事「真神を読む」で三橋敏雄の上五の複合動詞たたみ掛けについて「カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドのごとき破壊力を持つ必殺技」と形容した村井康司が、十五年後に同じ技法を用いてこのような脱力句を書いていると思うと、その落差がなんだかひどく楽しい。

  虫干の色紙に毒気消え去らず    大上朝美
 なんの色紙だろう。いずれにせよ、書いた人との往時の交流がまざまざと思い起こされるような記載内容と筆致なのだろう。

  借景のおほかた隠す夏の庭     大上朝美
 草蓬々となってしまったのか、年月をかけて樹木が成長し生い茂ってしまったのか。それもまた風情ではあろう。

  危険物貯蔵所に人春の昼      寺澤一雄
 本来の管理業者なのかも知れないが、滅多に立ち入らぬ場所に人がいるとぎょっとする。そんな雰囲気をすくい取っている。

2016年8月11日木曜日

『鏡』二十号を読む

  化身かもしれぬ沓音おち椿     八田夕刈
 東大寺二月堂修二会の連作である。「沓音」という表記であれば、掲句は「水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉」(「こもりの僧」とする異稿もある)を踏まえているのだろう。伝統行事ではあるが、まさに芭蕉が心を動かされたであろう沓の音を耳にして「化身かもしれぬ」と捉えたに違いない。「おち椿」は化身が実在した痕跡として機能している。

  内陣券あり〼路地に春疾風     八田夕刈
 連作の中で対象世界だけを切り取って描くのではなく、あえて対象世界を外側から捉えた句を混ぜて、冷笑的な一面も連作に取り込んだのは山口誓子であった。誓子は「天守眺望」という妙なる連作に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を混ぜ込んだり、「枯園」という妙なる連作に「部屋の鍵ズボンに匿れ枯園に」を混ぜ込んだりした。八田夕刈の掲句も宗教的な荒々しい伝統行事の世界から距離を置いた句を混ぜ込むことにより、連作全体に重層的な味わいを付け加えている。

  縞馬の縞は横縞夏近し       大上朝美
 楽しい句である。地面を基準とすれば縦縞であるが、人間の着衣と同様に背骨を基準に考えれば、縦に見えていても横縞以外の何ものでもない。そんな他愛もないことを考える気分が、いかにも「夏近し」である。

  呪文かなウワナベコナベホシハジロ 羽田野 令
 タイトルは『黒髪山残夢』。地図で見ると関西本線を挟んで東に黒髪山があり、西にウワナベ古墳、コナベ古墳がある。それぞれ池に囲まれてカモ目カモ科ハジロ属の水鳥ホシハジロが羽を休めているのだろう。これらの名前をつなげると確かに呪文みたいで妙に可笑しい。

  花房や肺を出てゆくきれいな血   佐藤文香
 「花房」とあるが、実際にこの句で詠まれているのは心臓のイメージだろう。全身から戻ってきた静脈血は、上下大静脈から右心房に流れ込み、右心房の血液は右心室から肺動脈を通って肺で酸素を取り込んだ後、左右の肺から各2 本ずつの肺静脈を経て左心房に入り、僧帽弁を通過して左心室に送られ、左心室の強い収縮力を受けて大動脈から全身に送り出される。心房→花房というちょっとした字句の入れ替えにより、俳句としての生命を獲得している。

  きさらぎのせせらぎのある光かな  越智友亮
 「きさらぎ」という言葉は「き」と「ら」があるだけにキラキラ感があって、音韻的な配慮を強いて人をある方向に向かわせる。

  はるのくれ鳥を言の葉として木は  越智友亮
 ひとつの木がびっしりと百千鳥状態になって、文字通り木が鳴いている感じになることがある。それは生態系の中で木にとっても悦びの謳歌であるに違いない。述部を割愛しているので、人語を超越した木の思いがあるのだろう。

  車窓よりあふれ出したるしやぼん玉 東 直子
 前句「春潮や朝一番の列車過ぐ」を手がかりにすれば「車窓」は列車の窓ということになるが、昨今子どもにそんな非常識なふるまいを許す親がいるのだろうか、などとつい余計なことを考えてしまう。そしてだからこそこの句の世界はよいのだ。

  とのぐもり無音の魚の運ばるる   東 直子
 「とのぐもり」は空一面に雲がたなびいてくもること。「無音の魚」がいささか不吉であるが、鰯雲でも鯖雲でもなくなった雲の状態だろうか。もちろん、上五で切れるという読みもあり得る。例えば魚料理。誰かが言った。魚料理とは魚の死体を食べることだと…。

  魚へんに何をつけても生きのびる  東 直子
 ところで魚料理はあまり漢字で書かないような気がする。マグロとかカツオとか…。これを鮪とか鰹とか書くとてきめんに泳ぎ出すのだ。

  桜島火を噴く饂飩茹であがる    佐川盟子
 シンクロニシティ俳句である。「レジスター開きて遠き雪崩かな 山田露結」とかこのジャンルは探せばいろいろあるような気がするが、そもそも二物衝撃とはシンクロニシティのことではなかったか。

  ほたるいか海の底へと地はつづき  佐川盟子
 「ブラタモリ」などのせいで地形への感心がにわかに高まっているのだが、この句、「ほたるいか」が地球のなりたちとかの話に出てくる古代生物の末裔のようで、じつにいい味を出している。

  産み月の靴すり減らす春日傘    佐川盟子
 臨月ともなれば安全のためにぺったんこな靴を履くのだろうが、それをさらにすり減らす妊婦の重量感がなんともよい。「春日傘」に、息を切らした感じが表れている。

  肉色のくれよんであゝ馬のかほ   村井康司
 一読「あゝ」の恍惚感がすばらしい。「肉色」の字面が語義を超えて官能的である。

  雪間より影を剥がして鴉発つ    笹木くろえ
 一点の黒いかたまりだったものが飛ぶ鴉とその影に分離するさまを詠んでいる。まるでカメラのCMのようで、現実以上の高細密度を感じる。

  如月の銀のドレスに走る皺     笹木くろえ
 越智友亮の句のところできさらぎのキラキラ感について触れたが、本句の濁音のたたみ掛け方にも味がある。ドレスに走る皺の下の肉のたるみまで見えるようである。

  振り向くなはだれ野が背に付いてくる 笹木くろえ
 なにかの神話のような「振り向くな」であるが、それによって引き起こされる災厄が「はだれ野が背に付いてくる」とは、べとべとでぐじょぐじょで妙に可笑しい。

  これが朴と指されし老樹芽吹きをり 谷 雅子
 葉が茂ってみれば一目瞭然の朴ではあるが、落葉樹なので芽吹きの頃には元々知ってなければ分からない。指さしてくれた人には「ほお」と答えたのだろうか。

  草に沖海に沖あり鷹渡る      寺澤一雄
 思い出すのは「恋人よ草の沖には草の鮫 小林恭二」だ。かれこれ三十年くらい前の句だろうか。青春まっただ中のような恭二句への時を超えた返句なのかも知れない一雄句からは、年齢相応の達観が感じられる。

  生者死者喪中はがきに名を書かれ  寺澤一雄
 言われてみればその通りである。この身も蓋もなさが一雄節である。

  寒垢離の人照明に当たりけり    寺澤一雄
 観光客向けにライトアップされているのだろうか。そうでないとしても、現代文明の中での宗教行事は時として妙なことになるのだろう。