ラベル 山本掌 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 山本掌 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年12月1日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(最終回)

 次の章は「海馬より」。海馬は大脳辺縁系で古皮質に属する部位。本能的な行動や記憶に関与する。これまでの章と様相を一変し、介護俳句となる。このリアリティのために、フィクションの句は「偽家族日乗」に寄せられていたのだろう。痛切な句が続くが、ここでは章の最初と最後の句を引く。

  痴呆とは海図のない旅さらの花  掌

 地図であれば中七に収まるわけだが、わざわざ「海図」としているのは、自分で移動すればいいというものではないからだろう。老人の体調は海の波のように、穏やかな日もあれば激しく時化る日もあり乱高下する。

  父咲(え)みて米寿の馬の駈けぬけよ

 米寿のその日、つかのま穏やかな笑顔だったのだろうか。そのまま持ってほしいという万感の願望が「米寿の馬の駈けぬけよ」の命令形に込められている。ちなみに章の最初の句に「海」があり、最後の句に「馬」があり、海馬ならぬものに分かれているところが暗示的である。

 次の章は「空蟬忌」。季節はめぐり「荒梅雨や関東平野は水の檻」を導入として、介護俳句がしばらく続いたのち息を引き取る。

  死よ急ぐなのうぜんかずらの首あり

 風船のしぼんだような凌霄花の様子が、痩せ衰えた老人の膚を想起させる。

  ただならぬ蟬の選びし蟬の声

 それがまさに虫の知らせだったのだろう。

 次の章は「寒牡丹」。研ぎ澄まされた句境に至る。

  鎖骨美し月光のはりさけん

 骨格標本である可能性もなきにしもあらずだが、痩身の人体の無防備な首元のうつくしさだと読みたい。月光とぎりぎりの緊張関係にある。

  寒落暉はげしき静の独楽とあり

 高速に回転し均衡を保っている独楽と落日の取り合わせの句である。「寒落暉」と「独楽」は季またがりだが、実際に眼前にあってぎりぎりの緊張関係にあるのだから、つまらぬ指摘はすべきでないだろう。

 次の章は「寒牡丹 ふたたび」。なにがふたたびなのかというと、父上に続き母上も亡くなるのだ。沈痛な句が並ぶが最後の一句を引こう。

  神遊ぶ朱のひとしずく寒牡丹

 表面上は寒牡丹の花弁のありようを詠んだものであろうが、この流れで挙句に置かれた「神遊ぶ」はまさに絶唱であろう。万感の思いが去来する。

 最後の章は「俳句から詩へ」。自作四句と加藤かけいの一句から着想を得て口語自由詩へと展開している。「八日はや棚機津女(たなばたつめ)の解かれて」による一篇など、意外な展開で面白い。

(完)

2018年11月30日金曜日

山本掌『月球儀』を読む(6)

 次の章は「非在の蝶」。「非在」とは、存在するものが今ここにいない不在と異なり、具体物ではない抽象的な概念のことらしい。そしてこの章に蝶の句はない。

  まず地球そしてわたくし青き踏む  掌

 踏青は旧暦三月三日に野辺に出て青々と萌え出た草の上を歩き宴を催した中国の習俗に由来するが、いきなり「まず地球そしてわたくし」と切り出す。なにごとと思うが、大地があってこその草原であり、それを踏むことのできる私なのだろう。天体のスケールで「まず地球」とまで言ったところがこの作者ならではである。

  その日より冬の貌(かんばせ)はずし置く

 冬の最後の日である節分と春の最初の日である立春とでは、実際に見える景色はほぼ変わらない。にもかかわらず、俳人は立春がくれば鬼の面をはずすかのように冬を捨て置き春の句を詠むようになる。その阿呆くささを捉えた機知の句だろう。

 その次の章は「蝶を曳く」で、またしても蝶。こちらは全句が蝶の句。つまり前章は、じらし飢餓感を与えるための非在で、本章で満を持して味わえる構成となっていたわけである。

  D海峡うちかさなりし蝶の骨

 あまねく知られた安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を踏まえた句である。しかしそうとうにブラックな解釈で、その一匹以外は渡れず海峡が屍累累となっているというのだ。あえてイニシャルにしたDにはdeathの意も込められていよう。

2018年11月28日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(5)

 次の章は「偽家族日乗」。日乗は日記のこと。章題のとおり偽家族による猟奇的な生態が淡々と綴られる。ここまで幽閉にも砒素にも美童にもすっかり慣らされて来たが、「のうぜんかずら綾の鼓はなりませぬ」「曼珠沙華幼(おさな)をたおりにゆくわいな」あたり、能や狂言の素養も要求されているようである。

  狂(た)ぶればのわれは花野の惑星よ 掌

 では接続助詞「ば」+連体助詞「の」の組み合わせは、能や狂言の素養があれば理解できるのだろうか。確信を持てずに書くのだが、これは音楽仲間だけに通じる「行かねばの娘」「買わねばの娘」の擬古典的展開ではないのか。だとすれば出典はアントニオ・カルロス・ジョビンによるボサノバ名曲の邦題「イパネバの娘」である。音楽仲間のあいだでの使われ方としては、例えば絶対欲しいCDを指して「私それ、買わねばの娘です」などという。この句の作者がメゾソプラノ歌手ということであれば、応用として「狂(た)ぶればのわれ」くらい大いに言いそうである。ちなみにこれを書いている時点で、作者山本掌と筆者三島ゆかりは面識がないので、まったくさだかではない。

2018年11月27日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(4)

 次の章は「危うきは」。これまでの二章ほど章のタイトルは明示的でない。字足らず、字余り、宗教語、会話体、命令形、擬態語などを技のデパートのように繰り出してくるが、無意味の散乱ではなく、生の孤愁とでもいうべきものの表現に総体的に向かっている。また伝統的な連句とは違うマナーで前後の句を何かしら関連を持たせて配列しているようである。章の最初の四句を見てみよう。

  樹下春光内耳たどれば地中海   掌
  パピルスの文字は眠りぬ青葉騒
  聖五月そっと言の葉屋上に
  繭透けてうすむらさきのさざなみ


 地中海→パピルス→言の葉、と連想のパスが渡され、繭のなかのいまだ発語しない(字足らずな)生命体に及ぶ。
 続いて章の最後の五句を、もう少しつぶさに見てみよう。

  銀漢の星のひとつを旅という

 宇宙全体としては摂理であるが、そのひとつひとつのありようは多様で旅というべきドラマが繰り広げられている。

  銀漢にわれは牛飼う漢(おとこ)かな

 通常の連句なら同語で付けることはしないものだが、連句ではないのでそこは指摘すべき点ではない。ひとつの旅として牽牛織女の故事を持ち出している。沢田研二「危険なふたり」の歌詞、「今日までふたりは恋という名の旅をしていたと言えるあなたは年上の人」(安井かずみ作詞)を思い出したりもする。

  白帝の罪咎われを教唆せよ

 前句とは「われ」で同語反復している。「白帝」は陰陽五行説に基づいた擬人化による秋の異名であるが、擬人化できるものには罪も咎もあるという捉え方が面白い(だって、秋ですよ…)。

  見よここに惑乱のごと秋の火蛾

 形式的には前句の命令形を反復するとともに、いかにも白帝の罪咎であるかのように、無実の蛾がおのれを火に投じる。火蛾の「が」は、名詞でありながら、「見よ、ここに○○が」という倒置の文体を音韻的に補完している。もしくは音韻的に導かれて収まった語が「火蛾」である。

  危うきはたとえば露のおもきこと

 この章の挙句である。露といえば王朝和歌的無常観において消えやすい、はかないものの代表であるが、ではどう消えるのか。前句の火からの連想で干上がることを思えば露の玉が大きいほど干上がらないわけだが、今度は逆に落下して落ちる危険が大きくなる。よかれと思うことは時として逆の結末を招き、それもまた無常である。そしてそれもまた白帝の罪咎なのかも知れない。

2018年11月24日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(3)

 次の章は「禽獣図譜」。実在の動物に限らず、鵺、迦陵頻伽、一角獣、火喰獣(サラマンドル)なども登場する。猿嫁、猿王あたりはちょっと分からない。出典があるのかも知れないし、その辺の人間社会のことなのかも知れない。また「青き馬」「群青の馬」「青き鷹」「青麦」「青水無月」「青海亀」と、青への固執もしくは偏愛も感じられる。そんな中、鮎の四句がただならぬ飛躍を見せる。

  若鮎の骨美しき宇宙塵     掌
  寵童を殺めし信長鮎を食う
  鮎食べて天球の半径を測る
  月球儀鮎の動悸のおくれけり


 なんと四句のうち三句は天体との取り合わせとなっている。年魚の異名が示す通り鮎は一年で一生を終えるので、そういう意味では惑星の周期に思いを馳せる引き金となっているのかも知れない。句集のタイトルの由来であろう月球儀の句、「動悸」が「同期」の同音異義語であることに注目しておこう。俳句の世界では同音異義語など注目に値しないことかも知れないが、この作者は朔太郎の写真とコラボするような人なので、油断ならないのだ。

2018年11月21日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(2)

 次の章は「双の掌」。「掌」は作者自身の名前でもある。手や指を中心とした連作であるがどの句にも必ず手が出てくる訳ではない。そのあたり作者の美意識によってゆるやかに連結されているようである。「掌」から「磔刑」「ゴルゴダのイエス」などが導かれたりもするが、連作は意外な結末に向かう。最後の三句をみよう。

  寂静や人体直立歩行より   掌

 寂静は仏教用語で「煩悩(ぼんのう)を離れ苦しみを絶った解脱(げだつ)の境地。涅槃(ねはん)。」とのこと。ついでながら前章「さくら異聞」中の瞋恚も仏教語であった。特定の宗教の立場ではなく、作者の詩情のほとばしりによってあるときは磔刑となり、あるときは寂静となるのだろう。

  われ眠る月の柩に仰臥せり

 「月の柩」という措辞が世俗を離れ比類なくうつくしい。そして柩のなかにあって死とは言っていない。「われ眠る」なのだ。前句「寂静」から導かれたイメージの広がりなのだろう。連作ならでは味わいである。

  月光の贄なるわれの生死かな

 前句のパラフレーズであるが、生け贄とか鳥葬とかが頭をよぎりつつ「月光の贄」の静謐さを思う。そんな今際の時もよいかも知れない。





 参考までに柩に寝るというだけなら先行句として例えば以下がある。

  寝棺より眺む風花かと思ひ 清水径子
  棺に寝て朝顔へ人走らする    同

 清水径子も独特の死生観を詠んだ俳人だが、後者は息を引き取ったばかりのあわただしさを故人に転嫁したユーモラスにして万感の追悼句だろう。

2018年11月20日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(1)

しばらく山本掌『月球儀』(DiPS.A)について書く。
(著者にご恵送頂きました。ありがとうございます。)
 最初の章は「朔太郎・ノスタルヂア」と題され、萩原朔太郎が撮影した写真六枚と山本掌の句のコラボとなっている。朔太郎の写真は初めて見たが、ここで使われている多くは茫洋とした不思議なものである。わりとくっきりしたものでは「大森駅前の坂道」という一枚があるが、ひと気のない白昼の坂道と石垣を遠近法の構図で捉えたもので、それはそれで夢のようである。右側の高台は光の関係でほぼ影となっている。例えばその一枚に添えられた句は以下。

  影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより 掌

 このように写真を説明する訳でもなく、付けられている。秋といえばものの影がくっきりとする季節であるが、幻想の入口であるかのように、倒置で「影なくす」と切り出している。

 次の章は「さくら異聞」。三部に分かれ、さくらにまつわる四十句が収められている。「日月流離糸をたぐればさくらかな」で始まり「白馬(あおうま)のまなぶたをうつさくらかな」で終わるが、四十句全体がひとつの世界でそこから一句を切り出して鑑賞したりするものではないのだろう。憎悪、瞋恚、妬心、殺意などの激しい感情が妖艶に移ろい、美童が打擲され臓器がゆらぐ。
 
(続く)