そうこうしているうちに大野晋、丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫)にたどりついた。「天ざかる鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」を検索したら、個人でこの本の索引を作っているサイトにヒットしたのだった。87年に出版され90年に文庫化された本で、その時分には私はまだ俳句をやっていなかった。いや、仮にやっていたとしても、題名を見ただけで「けっ」と言って近づかなかったに違いない。「てにをは」を中心に日本語の助詞について徹底的に解剖するじつにディープな対談で、丸谷が聞き手に回り大野が解説するスタイルとなっている。
「を」については<愛着と執着の「を」>という刺激的な章題となっていて、見出しを拾うと<目的格の「を」><経由の場所、時間を示す「を」><接続助詞の「を」><『新古今』的な「を」><「ものを」の意味><「ものゆゑ」「ものから」のむずかしさ>と続く。
丸谷 強調とか詠嘆とかの「を」ですね。
大野 いろいろな意味が入っているわけです。論理的な目的格であるという機能だけでなくて、それ以外に、それに対する愛着であるとか、執着であるとか、承認であるとかが「を」にはあるんです。原則として「を」には、それがあることを認めておくと、助詞の「を」を理解するときに、非常にわかりやすいと思います。
という原則があって、さまざまな「を」について語り尽くしている。おそろしい。
「を」についてはさておき、<「……のごと」から「……のごとし」へ>というくだりもある。「こと降らば袖さへぬれて通るべく降りなむ雪の空に消(け)につつ」を引き合いに、「同じ降るのだったら」という歌の解説の後、以下のように続く。
大野 (前略)ですから、「こと」というのは、「同じ」という意味です。それで「夢のごと」「今のごと」は、この「こと」の頭が濁ったもので、「今のごと」は、現代語では、「今と同じ」ということになります。(中略)「ごとし」という形容詞は、この「ごと」に形容詞語尾「し」をつけたものです。
ひえ~、なんということ。私は俳句しか知らないので、俳句の中で見かける「ごと」について、定型の要請で「如し」を勝手に縮めたものだと思っていたので、認識を新たにした。逆だったんだ。いろいろ目からうろこが落ちる本である。
2011年11月6日日曜日
「し」について
助動詞「き」の連体形「し」について、俳句での誤用云々が取り沙汰されて久しいが、岩波古語辞典の基本助動詞解説の大胆な記載について、触れておく。
き・けりは、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。
以上を力説した上で、「き」と「けり」について、解説がある。かいつまんで紹介する。
き 意味は「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は「だった」と自己の体験の記憶を表明することが多い。しかし、自己の体験し得ない、または目撃していない事柄についても用いる。例えば、みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には「き」を用いて「…だったそうだ」の意を表現した。
けり 「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故「けり」が詠嘆の助動詞だといわれることもある。しかし「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたときに用いるもので、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる。
大野晋氏の説が通説なのか研究者ではない私には知るところではないが、時制ではないと言い切ったことによって、大きく開けるものがあるような気がする。俳句実作者としての私は、♪「これでいいのだ~」と思うばかりである。「けり」など、まさにこれは切れ字そのものではないか。
【追記】大野晋氏の学説が学界でどのような位置をしめているかについては、週刊俳句の大野秋田さんの記事で紹介されている井島正博氏による『古典語過去助動詞の研究史概観』をご覧下さい。文内のムード機能説として位置づけられています。
き・けりは、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。
以上を力説した上で、「き」と「けり」について、解説がある。かいつまんで紹介する。
き 意味は「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は「だった」と自己の体験の記憶を表明することが多い。しかし、自己の体験し得ない、または目撃していない事柄についても用いる。例えば、みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には「き」を用いて「…だったそうだ」の意を表現した。
けり 「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故「けり」が詠嘆の助動詞だといわれることもある。しかし「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたときに用いるもので、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる。
大野晋氏の説が通説なのか研究者ではない私には知るところではないが、時制ではないと言い切ったことによって、大きく開けるものがあるような気がする。俳句実作者としての私は、♪「これでいいのだ~」と思うばかりである。「けり」など、まさにこれは切れ字そのものではないか。
【追記】大野晋氏の学説が学界でどのような位置をしめているかについては、週刊俳句の大野秋田さんの記事で紹介されている井島正博氏による『古典語過去助動詞の研究史概観』をご覧下さい。文内のムード機能説として位置づけられています。
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