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2006年5月8日月曜日

稲妻を手にとる

例えば私たちの句会にこんな句が紛れていたら、どうでしょう。

   稲妻を手にとる闇の紙燭かな 

 肯定するにせよ否定するにせよ「稲妻を手にとる」の強烈な措辞が批評の対象となり大いに盛り上がるはずです。
 ところがこの句、実は芭蕉の句で「李下に寄す」という前書きがあり、李下とは芭蕉の深川の庵に芭蕉(植物)を贈った人で、「お前の句風は、たとえていえば、闇を照らす紙燭として、あの大空の稲妻を手にとったかのごときあやしさがあるようだ」の意、とのことです(加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)による)。まことに五七五の裏に隠された伝記的事実は、句を見ただけでは分かりません。
 古いテキストを読むときは、それなりの心構えと準備がないと手には負えないということを、改めて実感する今日この頃です。

   はつなつの風の名前を考へる  ゆかり

2006年4月8日土曜日

かるみ

 『俳句の世界』、芭蕉のくだりは読み終わりました。また少し引用します。

態度と作調(トーン)とは、原因と結果との関係に当たる。閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」であり、繊細な態度で鋭く穿ち入る態度から生まれる作調が「ほそみ」であり、情感と柔順に融けあってゆく態度から生まれる作調が「しほり」であった。しかし、態度としての「かるみ」は、ひとつの境地に足を留めないことだから、特定の作調になるとは限らない。
(中略)従来、多くの研究者が精細な論究を試みながら、いまだに「かるみ」の意味が決定されないのは、作調としての「かるみ」を特定しようとしたからにほかならない。

 「流行」といい「かるみ」といい、晩年の芭蕉の思索の深まり方は尋常ではありません。

 しかしながら、伝記的に思索の深まりと作風の変化を捉えてゆく方法は、その意義や重要性を認め敬意を払いつつも、私は実作者として直感的に「変だ」と感じるところがあります。発句というものは、作者の名前や伝記とともに理解されるべきものなのでしょうか。五七五という世界最短小の韻文詩形は、そんなに脆弱なものなのでしょうか。

散りどきの花は裾より青みたり ゆかり

2006年4月5日水曜日

不易流行

 『俳句の世界』、元禄六年に至りました。途中何か所か芭蕉の文章を小西甚一が現代語に訳しているところがあるのですが、それが胸を打ちます。

 西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の画、利休の茶、これらを貫くものは、ただひとつである。かれらの藝術は、宇宙の無限なる「いのち」に深まり、それを表現してゆくものだから、把握するところは、ことごとく真の「美」である。この「美」がわからない者は、人間のなかまでもあまり上等の部類ではない。どこまでも宇宙の無限なる「いのち」に深まってゆくのでなくてはならぬ。

 宇宙の無限なる「いのち」とは、原文では「造化」で、「造化」とは自然のことではなく、老荘哲学に出てくる造化は、創造の無限連続とでも訳すはたらきをさす、とのことです。『モモ』に出てくる時間の花のようなものでしょうか。もう一箇所、引用します。

 俳諧には、そのときどきに移り変わってゆく表現と、いつまでも人の心をうつ変わらない表現とがある。前者を流行、後者を不易とよぶ。しかし、両者は、もともと別ものではない。いっしょけんめい真実なるものに深まってゆく人は、どうしても同じところに足をとめることができず、必然的に新しい境地へと進む。それが流行である。永遠にわれわれを感嘆させる作品は、その流行の中から生まれる。それが不易である。流行も不易も、そのもとは、どこまでも藝術の無限なる新しみへ深まってゆく「まこと」である。

 なんと真摯な姿勢でしょうか。芭蕉の句は正直よく分からないのですが、この現代語に訳された所信表明は胸を打ちます。芭蕉における流行というのは、日常会話における流行とはぜんぜん違う意味なのですね。

吹き溜まる花の屑さへあたたかき ゆかり

2006年4月2日日曜日

初期俳諧集

 『俳句の歴史』は天和三年あたりまで読み進みましたが、それとは別に図書館と書店で文献を探してみました。
 何に書いてあったのかもう忘れてしまいましたが、芭蕉復興などと盛り上がる時代は沈滞の時代なのだそうです。つまり「芭蕉えらい」と「旧習の否定」(芭蕉の場合は貞門、談林)をセットとして、沈滞を打ち払おうとする動きとなるようです。
 困ったことにわたしは、貞門や談林の句を読んでいて、妙に感じ入ってしまうのです(変なものとして引用される談林のよっぽど変なのは別ですが…)。これを否定したらわたしの存在も否定されてしまうような危機感すら覚えるのです。
 けっきょく図書館で『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(岩波書店)を借りてきました。中に『犬子集』『大阪独吟集』『談林百十韻』が収められています。

予報では花曇りのち花の雨 ゆかり

2006年4月1日土曜日

発句の独立

 30日の書き込みにりんりんさんからコメントを頂きました。実はまったくもって私にとっても芭蕉はなかなかの難題でして、加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)の巻末の「芭蕉の生涯とその発想」を読んだ後、本文を読む気が起こらず、小西甚一『俳句の世界』(講談社学術文庫)をまた読み始めてしまいました。『俳句の世界』は、おりおりの私自身の関心の方向によって、何度読んでも新しい発見があり驚かされます。
 さて、先日引用した山川の日本史の教科書はかなりさすがで「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた」ということを書いています。現国の副読本の文学史あたりでも俳諧と俳句を区別せず俳諧が百韻とか三十六歌仙とか続くものであることをよく伝えていないものがある中で、日本史の教科書なのにしっかりとしています。
 そこで気になるのが、加藤楸邨『芭蕉全句』はなぜ発句のことしか書いていないのか、と、発句は芭蕉が独立させたのか、ということです。小西甚一『俳句の世界』には驚くべき仮説が書いてあります。

・俳諧じたいは室町時代からあったが、寛永ごろから急ににぎやかになる。
・直接的には松永貞徳がさかんに活動したこと、間接的には印刷術が発達したことが原因である。
・朝鮮出兵で活字技術を持ち帰り、江戸初期から出版が見る見るさかんになった。
・俳書もどしどし出版された。
★俳書の作成費用としては入集料をとったのではないか。
★この時代の俳書が発句を主にしたのは、なるべく多数の人から句を集めるためではないか。(=なるべく多数の人が入集料を払い、かつ購入する。現代の総合誌が作家に原稿料を払うものなのであれば、現代の考え方とは逆ですね。同じ現代でも、結社誌や同人誌のほうは、このやり方を踏襲していますね。)

 ★が小西甚一の仮説なのですが、おおいに説得力があります。このようにして印刷メディアで長大な俳諧そのものとは別に、コンパクトな発句が大量に扱われるようになり、それを背景として芭蕉が出現したということなのでしょうか。じつにわくわくする仮説ではないですか。

クローンのただ待つてゐる夕桜 ゆかり

2006年3月30日木曜日

芭蕉の背景

 俳句の世界だけで考えても時代背景が理解できないので、たまたま手許にある山川の日本史の教科書(『新詳説日本史 改訂版』1993)を参考にすると、

1592 文禄の役(文化的には朝鮮より活字印刷が伝わる)
1603 家康、征夷大将軍
1635 参勤交代(などによる幕府の国内支配安定化)
1639 鎖国の完成(ポルトガル船来航禁止)

という流れの中で、

■政治の安定と経済の発展を背景に、5代将軍綱吉(1646~1709)の元禄時代が展開した。この時代には農村における生産の発展を基盤に、都市では新興の商人が活躍し始め、武士や町人が元禄文化とよばれるはなやかな都市文化を開花させた。

となるのですね。

◇元禄文化を特色づけるものは、上方を中心に隆盛をみた町人文芸であった。それを代表するのが井原西鶴(1642~93)・松尾芭蕉(1644~94)・近松門左衛門(1653~1724)である。
 西鶴は大阪の町人で、はじめ俳諧で才気をうたわれたが、やがて浮世草子とよばれる小説に転じた。彼は現実肯定の立場から「浮き世」の世相や風俗を描き、町人が愛欲や金銭への執着をみせながら、みずからの才覚で生き抜く姿を赤裸々に写しだした。
 同じころにでた芭蕉は伊賀の武士出身で、西山宗因(1605~82)のはじめた談林風の俳諧が奇抜な趣向をねらうのに対して、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風(正風)俳諧を確立し、自然のなかに人間をするどくみつめた。また連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた。芭蕉は各地に旅をして地方の武士・商人・地主たちとまじわり、『奥の細道』などのすぐれた紀行文も残した。

 つまり、世の中に余裕ができて町人に俳諧が拡がって、その中に西鶴や芭蕉がいて、西鶴は他のジャンルに転進して成功し、芭蕉はとどまって成功したということなのでしょうか。それにしても350年も前の話なのですね。ゆかり的には、奇抜な趣向をねらう談林というものに興味津々です。

この国を花冷えといふ気団かな ゆかり