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2012年1月9日月曜日

どうでもいいようなことに目をつける着眼点

花束の茎薄暗き虚子忌かな     小野あらた
かき氷味無き場所に行き当たる
嚙むたびに鯛焼きの餡漏れ出しぬ
大きめの犬に嗅がれる遅日かな
人文字の隣と話す残暑かな
鷹去つて双眼鏡のがらんどう

 この人は正統派でめちゃくちゃうまいのではないでしょうか。どうでもいいようなことに目をつける着眼点がじつにある種の俳句的なのです。食べ物の句がやたら多いのはちょっとどうかとも思いますが…。

日脚伸び日脚伸子と名乗りけり  ゆかり

2012年1月8日日曜日

青春性の横溢

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて    福田若之
僕のほかに腐るものもなく西日の部屋
君はセカイの外へ帰省し無色の街

 青春性の横溢としかいいようがない、若々しい句群です。自意識の過剰や挫折(それすらも「あらゆる知」の反復でしかない)のまっただ中を当事者としてぐんぐん貫く、そんなかっこよさに溢れています。
 そんな青春性を俳句として表現するにあたり福田若之は、もはや単純な棒の如きものには飽き足らず、分かち書き、句読点、記号などの技法を手当たり次第に駆使します。

くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。  福田若之
伝説のロックンロール! カンナの、黄!
さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち



 もしかするとこの人は俳句というジャンルにはとどまらず、どこかへ行ってしまうのかも知れません。


回春の状なきひとと梅探る ゆかり 

2012年1月7日土曜日

ささやかな幸せ

襟巻となりて獣のまた集ふ 野口る理

 虚子の「襟巻の狐の顔は別に在り」の「うまいこと言った」感が苦手な私としては、「また集ふ」と言いとめた、さらりとしたユーモアがとても好きです。ささやかな幸せはささやかな幸せとして謳歌したいものです。

初夢の途中で眠くなりにけり 野口る理

 まるでそれまで寝ていなかったような、この嘘っぽさ、すごくいいです。

佐保姫や映画館てふ簡易夜 野口る理

 「簡易夜」、辞書を引いても検索しても見あたりません。「簡易宿」を誰かが清記ミスして、それを一同面白がったので決定稿にしてしまったのでしょうか。簡易夜である映画館の外では、折しも佐保姫が春の光をまき散らしているのです。

浴衣脱げば脱ぎ過ぎたやうな気も 野口る理

 破調がとまどいの感じをよく伝えています。言われてみれば、確かに中間がないのです。実に面白い感覚です。


人日のさて注文は全部入り ゆかり

2012年1月6日金曜日

あなた、だいぶ俳句に冒されてますな

戌年の用意二人で川へ行く 岡野泰輔

 戌年という干支が絶妙に可笑しいです。いったい川で何をするというのか。

花冷えや脳の写真のはずかしく 岡野泰輔

 ただの写真ではありますが、脳だけに人に知られたくない思いが写っているようで、はずかしいのでありましょう。「花冷え」がこれまた絶妙によいです。先生に「あなた、だいぶ俳句に冒されてますな」とか言われそう。

世の中に三月十日静かに来る 岡野泰輔

 三月十日といえば、奉天陥落を祝した陸軍記念日を暗転させる東京大空襲の日だったわけですが、いまや三月十一日の前日に過ぎない状況になってしまいました。これから来る三月十日は、どんな日なのか。あの震災以降に作られた句なのか定かではないのですが、印象深い句です。

人日の右脳左脳のありどころ ゆかり

2012年1月5日木曜日

脱ぐ

セーターの脱いだかたちがすでに負け 岡野泰輔

 「かたち」がなんとも可笑しいです。脱いだセーターにふくらみやくびれがそのまま匂い立つように保存されていないと、この人は許せないのです。こんな人に負けだと言われるのは、ちょっとくやしい気がします。

さくら鯛脱いでしまえばそれほどでも 岡野泰輔

 失礼な句です。きっと脱ぐ前は「さくら色したきみが欲しいよ~」と歌っていたのです。

目の前の水着は水を脱ぐところ    岡野泰輔

 水を上がってからが水着の本領で、舐めるような視線にさらされるのだとしたら、まさに「水を脱ぐ」であって、脱ぐことに他ならないのです。これはすばらしい句です。

ぜんぶ脱ぎ氷山の一角とする ゆかり

2012年1月4日水曜日

とても蛇

『アビーロード』のA面の終わりといえば、She's so heavyですが、じっさいのところ、岡野泰輔さんの蛇の句はきらきらしています。

いちばんのきれいなときを蛇でいる 岡野泰輔

 蛇だって発情期には婚姻色に彩られるのでありましょうが、そういうことではなくて、ひとつの生命体の輪廻の中で、いちばんのきれいなときが蛇って、そうとうかなしい性です。ほとんどひらがなの中に一文字だけ「蛇」が漢字という、表記への配慮がこの句を確かなものにしています。

左手は他人のはじまり蛇穴を 岡野泰輔

 「左手は他人のはじまり」と不如意を嘆くようでいて、この季語の斡旋はなにかしら淫靡な悦びのはじまりのようにも思われます。


蛇眠るうへのあたりで毛糸編む ゆかり

2012年1月3日火曜日

何かの間違いで音楽を演奏する不思議

ピアニスト首深く曲げ静かなふきあげ 岡野泰輔

 ビル・エヴァンスの沈潜するバラードを思います。季語なのかエモーションのほとばしりなのかを限定しないように注意深く語を選んだであろう、破調の「ふきあげ」がじつによいです。

秋の夜の指揮者の頭ずーっと観る 岡野泰輔

 前句もそうなのですが、人間のかたちをした人が何かの間違いで音楽を演奏する能力を持っている不思議を、この句も濃厚に感じさせます。

蔦かずら引けば声出るピアニスト 岡野泰輔

 そんな演奏家を山に連れ出し、「弾けば音出る」ではなく「引けば声出る」としてしまったわけですが、根底には演奏家であることへの不思議が鳴り響いていることでしょう。

音楽で食べようなんて思うな蚊 岡野泰輔

 「思うなかれ」であればなんとも照れくさくもある説教になってしまうのですが、この突然の切断。まるで『アビーロード』のA面の終わりではないです蚊。


お別れは下校のあれを春隣 ゆかり

2012年1月2日月曜日

初買ひあまた

ブックオフの半額セールで谷口ジローを多々。『坊ちゃん』の時代シリーズ、文庫では字が小さすぎて、もはや目許不如意につきこのたび大判に買換。『『坊ちゃん』の時代』『秋の舞姫』『かの蒼空に』『明治流星雨』『不機嫌亭漱石』。他に『センセイの鞄』①②、『地球氷解事紀』上下。
 よほどのコレクターがお亡くなりになったのか、ほとんどコンプリートなのではないかと思われるくらい谷口ジローが出ていたのですが、いかに半額セールとはいえ手許不如意につき、このへんで。
 さて、『センセイの鞄』②の巻末に川上弘美さんと谷口ジローさんの対談があって、川上さんがこんなことを言っています。

 コミックスの一巻が出た時に、帯の文章として「こういう話だったんだ! はじめて知った」って書いたんですけど、本当にその通りで、自分が書かなかった動作や隙間や背景が、そこにあらわれていた。同じ中身なのに、新しいものを見せてもらった喜びがあって、本当にお願いしてよかったです。

 これは原作と作画の関係について語っているわけですが、俳句と選とか、俳句と評の関係というのも、俳句というものが本来あまりにもすかすかなので、作者が「こういう句だったんだ! はじめて知った」と感じるようなことが、ままあるのだろうなあ、と暮れから読んでいる『俳コレ』と重ね合わせて思うのでした。

頭部管奥の我が眼を二日かな ゆかり

2011年12月31日土曜日

間違ってできちゃった俳句

大みそか回送電車明るくて    岡村知昭
菜の花の岬ばんそうこう剥がす
みどりごの固さの氷菓舐めにけり


 そんな岡村知昭ワールドに、間違ってできちゃったみたいに普通の俳句が置かれているのです。一句目、寒い中、終夜運転の電車を待っていると回送の分際でこうこうと明かりをつけた電車が通り過ぎる、この世に見放されたような寂寥感があります。二句目、これ、「岬」が余分なようでいて絶妙です。頭の中に「岬」と呼ばれる関節が立ち上がりませんか。三句目、普通の俳句としてはいささか尋常でない比喩が、岡村知昭ワールドとの圧力調整のための小部屋としての効果をあげています。

林立する瓶

きさらぎがこわい牛乳瓶の立つ     岡村知昭
口語だめペットボトルの直立し
ほんものの雪を見ている麦酒瓶
あんだるしあ空瓶はこわれているか


 これを男性器の象徴などと読み出すと、がらがらと音を立てて瓶がぜんぶ割れてしまう岡村知昭ワールドなのです。すべて書いてあるとおり、牛乳瓶でありペットボトルであり麦酒瓶であり空瓶なのです。
 一句目、パックではありません。中身の見える牛乳瓶です(空なのかも知れないけど)。そういえば子どもの頃、給食のあと「牛乳が飲めるまで遊んじゃ駄目」とか先生に怒られている同級生がいたものです。おそろしい白い牛乳。真冬の冷たい牛乳。「牛乳がこわい」ではないので、きさらぎにまつわる何かしら牛乳のような理不尽があるのでしょう。
 二句目、これ、岡村知昭ワールドのへなへなな国の憲法みたいでいいです。
 三句目、ほんものの雪でないものが何かあるのでしょう。ちなみに検索してみると、日本の冬季限定ビールの発売は1988年、初期の頃は缶と瓶の並行販売だった由。私は、雪の結晶のデザインのラベルを思い浮かべました。
 四句目、「あんだるしあ」とわざわざ平仮名で表記しているのは、貨物船かなにかなのでしょうか。当然こわれていることを期待した書き方が、なんとも岡村知昭ワールドです。

現実界への風刺として機能しない無意味

かごめかごめが官邸で泣いている 岡村知昭
帝国のあんなにあって猫泳ぐ
警官のままの兎の濡れている
淋しくて国民になるバナナかな
梔子の花いきなりの遺憾の意
出征と言わないでおく冬三日月


 現実界への風刺としては機能しないくらい無意味なこれらの語彙は、変なたとえですが『ひょっこりひょうたん島』にガバスという通貨があったみたいに、岡村知昭ワールドの重要な機能としての、国家や政府や軍隊や警察なのでしょう。それにしても、なんと頼りない国家や政府や軍隊や警察であることよ。

やや思ふ青鞋のこと閒石のこと

水売りの言葉によれば立夏かな 岡村知昭

 「水売」というのは、広辞苑によれば「江戸時代、夏、冷水に白玉と砂糖を入れ、町中を売り歩いた商人」とあります。たぶん、この人たちの立夏はまさに仕事がかき入れ時になる頃なのでしょう。
 ところでこの句、「この国の言葉によりて花ぐもり 阿部青鞋」の遠い影があるような気がします。

れんこんのなおも企む日暮かな 岡村知昭

 そう思い出すと、この句も「れんこんの穴もたしかに嚙んで食べ 阿部青鞋」の遠い遠い影があるような気がしてきました。からっぽの分際で、れんこんの穴が悪代官のように企んでいるのです。ついでにいうと、「日暮かな」だけなのに「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」のほのかな影もあるような気がしてきました。阿部青鞋も橋閒石も、意味と無意味のはざまで重大な足跡を残した俳人なので、読者の方で呼び込んでしまうのかも知れません。

秋風も叙情詩もいや三宮 岡村知昭

 閒石といえば、「詩も川も臍も胡瓜も曲りけり 橋閒石」という句があり、詩を含む「も」の連鎖に、やはり影を感じます。三宮といえば、この句ができた頃、復興は進んでいたのでしょうか。

由緒正しき固有名詞

きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで  岡村知昭
崇徳院詣でのカラスアゲハかな
祇園こそ偽シベリアを耐えにけり


 六波羅蜜寺は、祇園にほど近い京阪電車清水五条駅下車徒歩7分、明治天皇が崇徳院の御霊を祀った白峯神宮は烏丸線今出川駅下車徒歩8分とあります。ずっしりと歴史の染み込んだ固有名詞を駆使し、作者は変な句に仕立てます。
 なぜ六波羅蜜寺まできりぎりすが走らねばならないのか。なぜ崇徳院詣でのカラスアゲハなのか。たぶん作者として提示するひとつの読み方は何もなく、読者の知る限りの歴史の中で、虚実まぜこぜに意味が隠密のように走り出し、怨霊のように跋扈するのを待っているのです。そんな中、おそらく造語なのでしょう、「偽シベリア」という見たことも聞いたこともない語が目を引きます。まったく人々が知らなかった歴史に祇園が耐えていたのだという、壮大な大嘘がじつに楽しいです。

すり替えられた無意味

夕焼けやウイルスを美しく飼い 岡村知昭

 例えば「文鳥」でも「蘭鋳」でもいいのですが、ほんとうに美しくて飼えるものでも成立する句型を整えておいて、あえてそうでないものをそこに置くことによって出現する意外性、倒錯こそが、岡村知昭ワールドなのでしょう。奇しくも発句は「ウイルス」。罪悪感のない天才少年たちのように、作者はその愉快にうちふるえていることでしょう。

おとうとを白旗にして夏野ゆく 岡村知昭

 例えば「おとうとを先頭にして」だったら、まったく当たり前でノスタルジックなスナップなわけですが、この人は「おとうとを白旗にして」と書かざるを得ないのです。おそらく、ただ「その方が面白いから」。いったい何に降伏したというのか、生きながらに白旗として宙づりにされたおとうとのように、すべての意味が宙づりにされています。

2011年12月29日木曜日

ためしに壺に活けてみる

句集を読んでいると、ある句が自分の知っている別の人の句と自分の中で吊り橋が落ちるように激しく共振し出すことがあります。そんな句たちを同じ壺に活けてみるのも楽しいかも知れません。

腹筋をたっぷりつかい山眠る 渋川京子
山眠る等高線を緩めつつ   広渡敬雄

 いずれも「山眠る」の句としては、かなりトリッキーなものでしょう。京子句、腹式呼吸して眠る山を思うと、人間の営みなどほんの地表のささいなものなのでしょう。敬雄句、そもそも地図上の概念であって実在しない等高線をコルセットのように捉えた見立てが実に可笑しいです。

梅咲いて身にゆきわたる白湯の味  渋川京子 
ひとりとは白湯の寧けさ梅見月  太田うさぎ

 つい先日、うさぎ句について「酒豪ならではの句でありましょう」と書いたばかりなのですが、渋川京子さんにも白湯の句があって、奇妙な暗合に驚いています。白湯の味を梅の花と配合させた京子句、「ひとりとは白湯の寧けさ」だという感慨を梅の時期と配合させたうさぎ句、どちらも五臓六腑にしみわたります。

枇杷の花谺しそうな棺えらぶ  渋川京子
行春やピアノに似たる霊柩車  渡邊白泉

 磨き上げられた棺は、言われてみれば確かに谺しそうです。また黒光りする霊柩車は確かにその色艶の具合においてピアノのようです。音や楽器の比喩は、いささか不謹慎といえば不謹慎ですが、俳人たるもの、そう感じてしまうのを禁じ得るものではありません。京子句、ここではまったく谺しそうもない、もっさりとした枇杷の花を配合していて、じつに渋いです。

俳句というフラワーアレンジメント

刈萱を投げ入れ壺をくつろがす 渋川京子

 活ける草花によって、壺も緊張を強いられたり、そうでなかったりするのでしょう。壺が単なる器ではなく、草花と呼応して生命を得る配合の機微を思います。「投げ入れ」と「くつろがす」の把握が絶妙です。

逝く人に本名ありぬ青木の実 渋川京子

 してみると、ある種の二物衝撃はフラワーアレンジメントそのものなのです。「センセイ」と呼んでいた人が松本春綱という本名を持っていたことを思い知らされるような、そんな場面は、お互いを俳号で呼び合う私たち俳人仲間のあいだでもたまにあることです。「青木の実」のくっきりとした斡旋がじつに見事です。

空蝉の好きな人なり

空蝉の目と目離れて吹かれおり  渋川京子
空蝉に好きな場所あり呼ばれおり

 渋川京子さんはぎょっとするほど、空蝉の好きな人なのです。あるとき喫茶店でやっている句会に、「みんなに見せようと思って」と、空蝉を箱に入れて十ばかり持っていらしたことがあります。居合わせた俳人一人一人に一個ずつ空蝉を配り、「この、目が透き通ったあたりが可愛いでしょう。まるで生きているみたい」などとおっしゃるのです。で、最後は「こんなもの渡されてもお困りでしょうから」と、回収してまた丁寧に箱に入れ、持って帰られたのでした。掲句はそんな渋川京子さんの一面を伺わせる句です。
 二句目は蝉の習性として脱皮にふさわしい場所があるのでしょう。それを「呼ばれおり」ととらえる感性が、じつにキュートです。

渋川京子の光と闇

渋川京子さんについては『レモンの種』(ふらんす堂)を上梓された際に書かせて頂いたので(右側のラベルからたどることができます)、そのときに触れなかった句を今回は取り上げます。

夏夕べ鏡みずから漆黒に 渋川京子

 ちょっと前までは、よほど暗くなるまで電気なんかつけなかったものです。虚なのか実なのかというと虚の書き方をしているわけですが、郷愁の中の夏夕べの光の具合をとらえて過不足ありません。

月光に聡き兄から消されけり 渋川京子

 これも同様に光を題材とした虚の句。「聡き兄から消されけり」のs音、k音が実に繊細で怖ろしいではありませんか。

2011年12月25日日曜日

変なうさぎ

西日いまもつとも受けてホッチキス 太田うさぎ

 昨今はてこの原理を巧妙に取り込み、より小型化され、より小さな力で綴じることができるように進化したホッチキスですが、ここで詠まれているのは昔ながらのぎんぎらぎんのホッチキスでしょう。まったく本来の機能に関係なくドラマチックに詠まれたホッチキスは、オフィスの天井にその反射光をなみなみと及ぼしていることでしょう。こんななんでもないものを、こんなに高らかに詠んでしまううさぎさんの変さを思わずにはいられません。

鯛釣草ここは蓬莱一丁目 太田うさぎ

 検索すると横浜市中区、和歌山県新宮市、福島県福島市などに蓬莱一丁目は実在します。季語が先なのか地名が先なのか分かりませんが、中国伝来の植物に、これまた中国伝来の霊験あらたかなようでいてなんとなくぱっとしない地名を取り合わせて一句をものにしてしまう変なすごさが圧倒的です。「ここは」がなんとも言えずよく、今まではなんでもなかった「蓬莱一丁目」に突然ドラマが立ち上がる感があります。

酒豪たるうさぎ

祭礼の人の行き来を昼の酒     太田うさぎ
風ぬるく夜のはじまるラム・コーク
どぶろくや眼鏡のつるの片光り
猿酒ひと美しく見えてきし

 白昼から古今東西多種多様のお酒を召し上がります。「猿酒」は空想的な季題とされますが、ひとたびうさぎさんの手にかかるとお構いなし。

ひとりとは白湯の寧けさ梅見月   太田うさぎ

 そんな酒豪ならではの句でありましょう。
(あまり見ない「寧けさ」は、仮に「しづけさ」と訓んだけど、あまり自信がありません。こっそり教えて下さい。)