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2009年11月21日土曜日

俳風動物記

 とある絶版フェアで宮地伝三郎『俳風動物記』(岩波新書)なる本を購入しました。1984年に出た黄色時代の岩波新書で、著者は動物生態学専攻の学者。目次はこんな感じです。
 
Ⅰ 香魚のすむ国
 香魚のすむ国
Ⅱ 水辺の優位者たち
 カワウソと獺祭
 水郷のおしゃべり鳥・行々子
 カイツブリの生活と行動型
Ⅲ 俳諧師との湖沼紀行
 アメノウオと湖沼類型
 イサザの幼態進化
 タニシを鳴かせた俳諧師
 三種のシジミと環境語
Ⅳ 不殺生戒の時代
 蚊を焼く
 放生会
 川狩りの記憶
 
 取り沙汰される句はほとんど江戸期のものですが、著者自身の句(俳号・非泥)も少なからず掲載されています。

 例えば「蚊を焼く」の章。昔の人は蚊帳に入ってしまった蚊を紙燭で焼き殺していたのですね。はじめて知りました。

蚊を焼いてさえ殺生は面白き            川柳
紙燭してな焼きそ蚊にも妻はあらん         二柳
閨の蚊のぶんとばかりに焼かれけり         一茶
蚊を焼くや褒姒(ほうじ)が閨の私語(さざめごと) 其角
蚊を焼くや紙燭にうつる妹が顔           一茶
ぶんという声も焦げたり蚊屋の内          白芽
蚊を殺す罪はおもはず盆の月            写也
後の世や蚊をやくときにおもはるる         成美
独寝や夜わたる男蚊の声侘し            智月

などの句を俎上にのせ、動物生態学や死生観の見地からうんちくを傾けています。今日でこそ血を吸う蚊はメスであることが知られていますが、二柳や智月の句をみると江戸期にはオスの蚊が血を吸うと思われていたのですね。

 ところで其角の句、褒姒を検索すると面白いです。

 だが、褒姒はどんなことがあっても笑顔を見せることはなかった。幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を用い、当初、高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いた。

という記述があって、そうすると俄然気になるのが其角の有名な句。

越後屋にきぬさく音や衣更 其角

この句について小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で「(越後屋は)それまでは一反単位でしか売らなかった旧式の経営法を改革し、ほんの一尺二尺でも快よく分け売りをした。(中略)「絹裂く」はその分け売りをさす」と書いていて、もちろんそうなんだろうけど、其角なら「さんざん儲けて女かこって幽王みてえなことしてんじゃねえか」くらいの皮肉を込めたのではなかろうか、と、ふと思うのでした。

2009年8月28日金曜日

小西甚一『日本文学史』

 この日記の初期の頃の記事を読んで下さった方から『日本文学史』も薄さに反比例する素晴らしい本ですが、きっとゆかり様の本棚に、だいぶんくたびれて立っているのじゃないでしょうか?」というメールを頂き、恥ずかしながら未読だった私は今まさに読んでいるところです。中国文学との交渉史として日本文学史を俯瞰したこの本、たいへん刺激的で面白いです。芭蕉のくだり、ちょっと長くなりますが引用します。

 芭蕉が杜甫にふかく傾倒していたことは、周知の事実であるが、さきにも述べたとおり、杜甫の詩句をどのように換骨奪胎したかなどは、たいして問題ではない。芭蕉が杜甫からまなびとった最大の収穫は、シナ的な切断性の深さであったろうと思われる。日本人の精神は、もともと自然との間に分裂をもたず、日本語は、常に「つながり」の表現を志向している。これに対して、シナでは、精神と自然がふかく切断されているばかりでなく、その言語も、音声的および意味的にぷつぷつと切れがちである。そうした切断を契機とし、切断されながらもふかく融合しているといったような表現を成就したのが、杜甫にほかならぬ。ところで、芭蕉の俳諧は、発句においても付合においても、鋭い切断を潜めており、それは、融合的・連続的な特性をもつ日本の詩として、はなはだ異例である。しかも、たんに切断されているばかりでなく、切断を媒介としながら、どこかで微妙に流れあい匂いあっているのであって、その深さは、杜甫におけるものときわめて近い感じがある。そうした近似点は、芭蕉があれほど杜甫に傾倒していた以上、杜甫からまなびえたと考えなくてはなるまい。

 じつにさらっと書かれていますが、私たちがこんにち二物衝撃と呼んでいるものは、遠く海を越えて隣の国と密接に関わっているのかも知れないのですね。

ダムありて秋のみづうみ終はりけり ゆかり

2006年4月8日土曜日

かるみ

 『俳句の世界』、芭蕉のくだりは読み終わりました。また少し引用します。

態度と作調(トーン)とは、原因と結果との関係に当たる。閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」であり、繊細な態度で鋭く穿ち入る態度から生まれる作調が「ほそみ」であり、情感と柔順に融けあってゆく態度から生まれる作調が「しほり」であった。しかし、態度としての「かるみ」は、ひとつの境地に足を留めないことだから、特定の作調になるとは限らない。
(中略)従来、多くの研究者が精細な論究を試みながら、いまだに「かるみ」の意味が決定されないのは、作調としての「かるみ」を特定しようとしたからにほかならない。

 「流行」といい「かるみ」といい、晩年の芭蕉の思索の深まり方は尋常ではありません。

 しかしながら、伝記的に思索の深まりと作風の変化を捉えてゆく方法は、その意義や重要性を認め敬意を払いつつも、私は実作者として直感的に「変だ」と感じるところがあります。発句というものは、作者の名前や伝記とともに理解されるべきものなのでしょうか。五七五という世界最短小の韻文詩形は、そんなに脆弱なものなのでしょうか。

散りどきの花は裾より青みたり ゆかり

2006年4月5日水曜日

不易流行

 『俳句の世界』、元禄六年に至りました。途中何か所か芭蕉の文章を小西甚一が現代語に訳しているところがあるのですが、それが胸を打ちます。

 西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の画、利休の茶、これらを貫くものは、ただひとつである。かれらの藝術は、宇宙の無限なる「いのち」に深まり、それを表現してゆくものだから、把握するところは、ことごとく真の「美」である。この「美」がわからない者は、人間のなかまでもあまり上等の部類ではない。どこまでも宇宙の無限なる「いのち」に深まってゆくのでなくてはならぬ。

 宇宙の無限なる「いのち」とは、原文では「造化」で、「造化」とは自然のことではなく、老荘哲学に出てくる造化は、創造の無限連続とでも訳すはたらきをさす、とのことです。『モモ』に出てくる時間の花のようなものでしょうか。もう一箇所、引用します。

 俳諧には、そのときどきに移り変わってゆく表現と、いつまでも人の心をうつ変わらない表現とがある。前者を流行、後者を不易とよぶ。しかし、両者は、もともと別ものではない。いっしょけんめい真実なるものに深まってゆく人は、どうしても同じところに足をとめることができず、必然的に新しい境地へと進む。それが流行である。永遠にわれわれを感嘆させる作品は、その流行の中から生まれる。それが不易である。流行も不易も、そのもとは、どこまでも藝術の無限なる新しみへ深まってゆく「まこと」である。

 なんと真摯な姿勢でしょうか。芭蕉の句は正直よく分からないのですが、この現代語に訳された所信表明は胸を打ちます。芭蕉における流行というのは、日常会話における流行とはぜんぜん違う意味なのですね。

吹き溜まる花の屑さへあたたかき ゆかり

2006年4月1日土曜日

発句の独立

 30日の書き込みにりんりんさんからコメントを頂きました。実はまったくもって私にとっても芭蕉はなかなかの難題でして、加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)の巻末の「芭蕉の生涯とその発想」を読んだ後、本文を読む気が起こらず、小西甚一『俳句の世界』(講談社学術文庫)をまた読み始めてしまいました。『俳句の世界』は、おりおりの私自身の関心の方向によって、何度読んでも新しい発見があり驚かされます。
 さて、先日引用した山川の日本史の教科書はかなりさすがで「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた」ということを書いています。現国の副読本の文学史あたりでも俳諧と俳句を区別せず俳諧が百韻とか三十六歌仙とか続くものであることをよく伝えていないものがある中で、日本史の教科書なのにしっかりとしています。
 そこで気になるのが、加藤楸邨『芭蕉全句』はなぜ発句のことしか書いていないのか、と、発句は芭蕉が独立させたのか、ということです。小西甚一『俳句の世界』には驚くべき仮説が書いてあります。

・俳諧じたいは室町時代からあったが、寛永ごろから急ににぎやかになる。
・直接的には松永貞徳がさかんに活動したこと、間接的には印刷術が発達したことが原因である。
・朝鮮出兵で活字技術を持ち帰り、江戸初期から出版が見る見るさかんになった。
・俳書もどしどし出版された。
★俳書の作成費用としては入集料をとったのではないか。
★この時代の俳書が発句を主にしたのは、なるべく多数の人から句を集めるためではないか。(=なるべく多数の人が入集料を払い、かつ購入する。現代の総合誌が作家に原稿料を払うものなのであれば、現代の考え方とは逆ですね。同じ現代でも、結社誌や同人誌のほうは、このやり方を踏襲していますね。)

 ★が小西甚一の仮説なのですが、おおいに説得力があります。このようにして印刷メディアで長大な俳諧そのものとは別に、コンパクトな発句が大量に扱われるようになり、それを背景として芭蕉が出現したということなのでしょうか。じつにわくわくする仮説ではないですか。

クローンのただ待つてゐる夕桜 ゆかり