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2017年1月2日月曜日

あらゆる手段を使ってでも

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第五章は「ラストシーン」。前章について「暴れどころはまだまだ続く」と書いたのは、俳諧の名残裏のように最後にはまともなものに戻って大団円という期待があってのことだったのだが、じつは最終章も暴れどころのままなのだった。いや、古典的な交響曲のように最大の暴れどころを最後に持ってきた、というべきか。『あしたのジョー』の最後のホセ・メンドーサ戦でコンニャク戦法やトリプル・クロス・カウンターを繰り出す矢吹丈のように嵯峨根鈴子が技を尽くす。
 
  老鶯のこゑ飴色となりにけり
  言語からはがれてあげはてふのだつぴ


 章頭、「老鶯の」はじつにオーソドックスにして手練れの一句である。飴色と形容された老鶯のこゑは、想像するだに楽しい。それに対し二句目の転じぶりはどうだろう。とりわけ平仮名表記の「だつぴ」。「言語からはがれて」とあるが、もはや意味の世界ではない、書かれた文字の快楽が暴走している。

  テロップのもしもしこちら蛍です。
  図に乗るな方舟は泥舟だ・母
  かまきりの振り向けば、だが、首が無い


 書かれた文字の快楽の暴走といえば、俳句ではあまり使わない「。」「・」「、」の使用もそれに該当するだろう。余談ながら、句読点に関していえば「雷雨です。以上、西陣からでした 中原幸子」の衝撃が私にはずっと忘れられない。

  昼からは姉のかたちになめくじり
  おとうとを薄めてみどりのソーダ水


 先の「図に乗るな」句の母といい、掲句の「姉」「おとうと」といい、作中の家族はまったく架空のもので自在にすがたかたちを変える。

  赤チンを塗つて折笠美秋より淋し
  車谷長吉といふしたたれり


 家族ばかりではない。この際、何でもありで総動員である。車谷長吉とくれば、何句か前にあった「かぶとむしガラス隔てて触れにけり」のかぶとむしの名は武蔵丸だったのか、などとこちらの脳が書かれていないことについ共振する。

  瑠璃揚羽あゝ背後よりブラックホール
  月見草マリアもすなるわるさかな


 総動員は本歌取りに及ぶ。「太古よりあゝ背後よりレエンコート 攝津幸彦」「男もすなる日記といふものを… 紀貫之」…。

 たぶん読者の私がうかつなだけで、他にも仕掛けはいっぱいあるのだろう。さて、このように技を繰り出して終楽章を駆け抜け、作者はどこへ行こうとしているのか。句集のタイトルとなった句を見てみよう。
 
  蜘蛛はクモの仕事に励むラストシーン

 実際に何かのドラマのラストシーンだったのであろうが、いかにもお約束のモンタージュで、一抹の不吉さの象徴としてドラマ本編と取り合わされるべき蜘蛛は、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならない。二物衝撃の本質は、取り合わされたもの同士が等価であることだから、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならないのと同様に、ドラマ本編もドラマ本編の仕事をしなければならない。ひるがえって俳句を見渡せば、季語の仕事に励む季語と、季語以外の仕事に励む季語以外のあまりにも類型的な堆積また堆積。そんな世界から、嵯峨根鈴子はあらゆる手段を使ってでも脱出しようと試みたのではないか。そんな気がする。

2017年1月1日日曜日

俳句の行動展示

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第四章は「小火」。暴れどころはまだまだ続く。身も蓋もない言い方をすればADHD(注意欠陥多動性障害)的とも感じられるが、作者の意図は「俳句の行動展示」にあるのではないか。行動展示とは旭山動物園などで広く知られるようになった手法で、動物の姿形を見せることに主眼を置いた「形態展示」ではなく、行動や生活を見せるものである。動物の場合であれば、ペンギンのプールに水中トンネルを設ける、ライオンやトラが自然に近い環境の中を自由に動き回れるようにするなど、動物たちが動き、泳ぎ、飛ぶ姿を間近で見られる施設造りを行うわけだが、俳句だとどういうことになるのか。
 これが「俳人」の行動展示なら話は別で、極度にショーアップされたかたちに句会をイベント化した人々の功績も知らない訳ではない。それはさておき、いま語りたいのは「俳句」の行動展示だ。これは難しい。俳句は生まれたところで一度死んでいるからだ。一度死んだものを、あたかも生きているように、読者が旭山動物園にいるかのように見せるにはどうすればいいか。それこそ小火でも起こしてパニックの中を走り回って見せればいいのか。
 
  薄翅かげろふ黒の秘密を舐めてより
  なにも決まらぬ松葉牡丹の会議かな
  校長のまむし酒なら知つてゐる
  脱皮せぬと決めたる蛇の自爆かな

 形態展示だとしたら一句一句に大した意味があるとは思えない。そうではなく、圧倒的な速度で迫り来る句を見切り、耳や肘をわずかに動かしてはかいくぐって前に進むイメージ。「秘密」→「会議」→「校長」、「まむし酒」→「脱皮」と連想が高速に推移しては自爆する。
 
  かはほりのこれ以上愛せぬ総身
  これまでと抛り込んだる銀の匙
  あちらではミカド揚羽を見たのが最期

 かと思うと、突然の指示代名詞の連鎖。そうとう切羽詰まっている。

  金魚田のつまりさびしい水なのか
  へうたんやすなはちすぐにすねる癖
  ユニクロのつまりどこにでもある小火

 これはばらばらに置かれた句。「つまり」や「すなはち」は先を急ぐための加速スイッチとして機能している。

  石灼けて帰るとすればこの半島
  死線まで辿ればみみず鳴く界隈
  折鶴を展けばみんな楽になり
  戻れなくなれば綿虫放つかな
  命綱引けば一気にひこばゆる

 これらもばらばらに置かれた句。仮定法であったり因果であったりする句型であるが、破壊や生死の境を条件として提示し、理不尽なファンタジーを放射する手法である。

  ろんろんと水湧き牡丹崩れさう
  ボサノバの夜がくすくすほうせんくわ
  逃げ水やむりよくむりよくと嚙む駱駝

 これらもばらばらに置かれた独特なオノマトペの句。「ろんろんと」は章頭の句である。その後上述のように加速されまくっているところで舐めきったように出現する「くすくす」や「むりよくむりよくと」は、どこか手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギのようでもある。

  龍天にのぼる放屁のうすみどり
 第一章にあった「龍天に上る背中のファスナーを」のリプライズにより、ようやくこの章は終わる。

2016年8月12日金曜日

感覚が冴えわたる暴れどころのできちゃった俳句

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第三章は「触れで汚れて」。句集全体の中での暴れどころなのか、感覚にまかせてできちゃったような句が目を引く。

  冬眠のベッドも椅子も大きくて
 人間とて冬場は活動力が低下し変温動物のように冬眠したくなる訳だが、それを、からだが小さくなるようだという感覚で捉えることは、あまりないのではないか。
  
  死んでやる口中あまき根深葱
 私に句集をお送り下さったくらいだから、まだ生きているのだろう。すると根深葱にいのちを救われたのか。上五の「死んでやる」という啖呵が楽しい。
 
  ふたりして煮凝揺するノンフィクション
 煮凝の凝固のぐあいを確かめるために、夫婦とか母娘とかでほんとうに揺すったのだろう。で、まるでなにかの小説の登場人物みたいな感じに襲われたその感じまでを句にしようとしたら、下五がこんなになっちゃったに違いない。
 
  御降の眼にやはらかく放尿す
 思い出すのは「さを姫の春立ちながら尿(しと)をして 宗鑑」である。掲句の場合「放尿す」の前に切れがあるように読むのが順当ではあろうが、御降と放尿を同一視したくもなるのは、宗鑑の句があるからだろう。ちなみに宗鑑の句は「霞の衣すそはぬれけり」への前句付けである。

  指先に触れで汚れて春の雪
 触れなくても汚れてしまうというのがいかにも春の雪である。打ち消しの接続助詞「で」でしかも「触れ」なので「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 与謝野晶子」をも呼び込み、どこか妄想性愛の趣もある。

  ふしあはせの馬刀貝だけを突くらしい
 馬刀貝というのは、穴に塩を入れて出てきたところを採るらしい。塩分濃度に敏感であり、急激な変化があると巣穴から飛び出す性質を利用した漁法なのだそうだ。掲句、それ自体では意味不明ながら、馬刀貝のそんな習性や特異な外見を知ると「ふしあはせ」とか「突く」という措辞がすごく効いているような気がしてくる。という読解のプロセスのために周到に用意されているのが、句尾の「らしい」なのである。

  ばくげきのぱふすりーぶがぱとひらく
 「ぱふすりーぶ」は『赤毛のアン』では「提灯袖」と訳された、肩のふくらみ。爆撃機が爆弾投下する際に、胴体下部を機体の曲面のままに開くあの感じと、パフスリーブは確かに妄想の彼方で通い合う。それは意味の世界で通い合っているわけではないので、こうなったらもう、全体をひらがな表記するしかないのだ。

  産道に水掻たたむ虹のあと
 哺乳類は受胎から出産までの間に動物の進化の歴史を繰り返すと言われる。哺乳類に進化する前は両生類で水掻があるのだろう。雨上がりの虹のあとあたりで、乾いて哺乳類になるのだろうか。「虹のあと」の「あと」に、絶妙な感覚の冴えを感じる。

  クローンの父いろなき風をひた走る
  どの蓋も合はなくて母だと名告る
 先に「螺子釘やはじめヒト科のちちとはは」について触れたが、父と母はここでも誰のでもある父と母として絶妙にやらかす。父は家庭的な実態としての感触を消して仕事に奔走し、母は間抜けながら強烈な実態を主張する。いかにも父であり、母である。

 

2016年8月6日土曜日

じわじわと可笑しい機知

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第二章は「話がある」。章ごとのキャラクターについては触れないことにする。たぶんない。機知に富んだ無季俳句がじわじわと可笑しい。
 
  むかひあふもやうのちがふ双子かな
 いうまでもなく「秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎」を踏まえて「双子かあ…」とにやにやして下さいという句である。ほとんど旧仮名フェチのような「むかひあふもやうのちがふ」のひらがな表記が心地よい。無季俳句である。
 
  省略の著しきに雪は降る
 「白魚のさかなたること略しけり 中原道夫」とか「下半身省略されて案山子佇つ 大石雄鬼」とかいろいろ先行句は思い浮かぶが、掲句はなにを略したのかさえ略してしまったのが手柄だろう。きちんとしたものをもいい加減なものをも降る雪が覆ってゆく。

  螺子釘やはじめヒト科のちちとはは
 螺子釘なので下穴を小さく空けて螺子を切りながら固定するわけだが、掲句は性行為の途中で姿を変えられてしまったような可笑しさがある。学名「ヒト科」の片仮名表記に「ちちとはは」とひらがなをぶつけたところが、なんとも人を食っている。無季俳句である。

  みな帰りたる噴水に話がある
 章のタイトルナンバーである。話があるというよりは、「ちょ、ちょっと待ってよ」というか何かしら一心不乱の噴水の水の集団行動に意義を申し立てたい気持ちにかられたのだろう。噴水を眺めているうちにゲシュタルト崩壊を起こしてしまった趣がある。 
 
  残像を先にたたせて御器嚙
 これは以前、週刊俳句の落選展で触れた。「残像を先にたたせて」はもちろん科学的ではないのだが、かの昆虫に対して祖先から遺伝子で受けつがれてきたであろうおぞましさをみごとに捉えている。

2016年7月30日土曜日

罠にかかって連れてこられた世界

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)は「らん」同人の著者による第三句集。(以前に週刊俳句で「2013落選展を読む」という記事を書かせて頂いた縁で、著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます。)例によって、全体の整合性は無視して章ごとに感想を述べて行きたい。
 第一章は「ハタナカ工務店」。章中「さくら蘂降るやハタナカ工務店」があるにはあるが、それに由来して章全体のトーナリティが決定づけられている訳でもなく、意味ありげに置いたかりそめのものだろう。読み始めた早い段階で、「うっ、これは俳句として読もうとすると失敗する」ということに気がつく。何しろ、切れ字とか季語の斡旋とか二物衝撃とかの、およそ俳句として読もうとする手がかりをあっさり無視しているのだ。たった三ページ、わずか六句のうちの三句で「全員のたどりつきたる春の罠」「もう人にもどれぬ春の葱畑」「姿見へ真つ直ぐ入る春の猫」と無造作に「春の…」と置いている。普通ならそんな季語の使い方はしない。罠にかかったとあきらめてまっすぐに鈴子ワールドに入って行こう。もう戻ってこれないかも知れない。

  龍天に上る背中のファスナーを
 「龍は春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」という想像上の季語を用い句に仕立てている。ファスナーであれば下ろす句の方が多そうなものだが、本句では着衣を完成し凜と香気を放つさまを、中国由来の季語で決めている。面白い。
 
  梅雨入まで間のあるカーブミラーの歪み
 「さくら蘂降るやハタナカ工務店」の次に意味ありげに置かれている。最後を「カーブミラーかな」とでもすれば定型に収まるのに、そうしないことに気概を感じる。もっともらしい定型で「俳句」を詠みたいわけでもなければ、ましてや詠嘆したい訳でもない。あの初夏の時間と空間の夥しい浪費の中で放置されそこに存在する、あのカーブミラーの歪みが詠みたいのだ、いや、そのようなものが修理されずに存在することが「ハタナカ工務店」という章の世界観なのだ。

  油照どこで切らうが腥し
 「ハタナカ工務店」はお化け屋敷も手がけるのだろうか。突然「夕立のはじまりさうなお菊井戸」以下「我こそは源頼光氷水」まで四ページにわたり化けもの由来の句が並ぶ。掲句は「汗だくの一心不乱のロクロックビ」と頼光句のあいだに置かれている。ロクロックビを切るにしても土蜘蛛退治をするにしても、いかにも腥そうである。
 
  雁よりもはるかに箸を置かむとす
 だまし絵のようでもあり、遠近感の狂いが心地よい。この辺りまで来ると、完全に罠にかかって連れてこられた鈴子ワールドにはまっている。