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2011年2月11日金曜日

きざし5

ゆく春のあをき放送室に鍵        近恵

 学校において放送室は唯一の機能上内側から鍵をかけることができる遮音空間であり、晩春のむらむらした陽気の中で発育ざかりの生徒たちは、怪しげな映像を再生したり、その気になりさえすればさらには行為に及ぶことだって可能である。具体的なことはなにも述べず「あをき放送室に鍵」とのみ密室を表現したところに、淫靡さのエキスを感じる。

黒々と巨人立ち上がりて驟雨       近恵
大丈夫水着姿にはならない


 この二句から感じられるのは、肉体の過剰と嗜虐である。とりわけ後者からは肉体の過剰と抑止効果がないまぜになった嗜虐を感じる。

とつくりセーター白き成人映画かな    近恵

 その世界には疎いのだが、おそらく「成人映画」という言葉は死語で、ある一時代を思い出させるものなのだろう。テレビが普及して映画館に足を運ぶ人が激減し、映画制作の予算が大幅に削られ、少ない予算で制作できる内容に移行した時代である。もっと時代が下ると、ビデオやパソコンの普及により、そういう目的の映画は存在理由をほぼ失ったのだろう。白いとっくりセーターも、そんなものを着ている人はまったく見かけなくなった。そして人々の記憶の中で、白いとっくりセーターの時代と成人映画の時代は見事に重なっているのである。

きざし4

『炎環新鋭叢書シリーズ5 きざし』(ふらんす堂)、続いては近恵さん。

いつつより先は数へず春の波       近恵

 どこぞの未開民族は数を表す語を5までしか持たずそこから先は「たくさん」という意味の語しかない、というのを、まことしやかに聞いたことがある。怪しげな都市伝説のひとつなのかも知れないが、おそらくは作者も日常の煩わしさを切り捨て、その伝説に一口乗ろうとしているに違いない。「数へず」にどこか鬱屈があるのである。「春の波」ののどかさに救いを求める気分が感じられる。

かぎろへる角を曲がりて消えにけり    近恵

 なにが消えたのかは明示されていない。追っていたものが陽炎のゆらめきの中で消失したのである。「かぎろへる」「角」「消え」「けり」と強調されたK音に、複雑な光の屈折を感じる。
 
旅支度終へて真黒きバナナかな      近恵

 旅を終えて帰宅した頃にはもう食べられないであろう困ったものが、妖怪のようにそこに存在する。意を決して食したであろうことは言を俟たない。ついでながら「一房の一気に黒くなるバナナ」という句もあり、作者の嗜好が偲ばれる。
 
ぐんにやりとおぶられてをり祭髪     近恵

 高円寺の阿波踊りだろうか。出番を待つ連の若い母親に背負われてぐったりとした幼児と、威勢のよい祭髪との対比がよい。

とろろ擂る大脳の皺伸びるまで      近恵

 馬鹿みたいに一心にとろろを擂るさまを「大脳の皺伸びるまで」と形容した。こう詠まれると、ほんとにどんどん馬鹿になるようである。

褞袍よりひとの匂ひのして重し      近恵

 冬着というものは、自分で着ている分にはあまり感じないが、脱いだものを掛けたりしようとするとその重さに驚かされる。ましてや褞袍である。生活臭がずしりと染み込んでいるのである。とはいえ「ひとの匂ひ」という言い回しに、伴侶への思いが感じられる。
 
初春や皺一つなく張るラップ       近恵

 おせち料理の残りの重箱にラップを張ると四角なので「皺一つなく張る」の快感がある。皿に盛った料理に張るラップは、起伏があるのでこの快感が得られない。してみると、これはまさしく正月の快感なのである。「初春」「張る」と二度「はる」が現れるところもおめでたい。

白鳥の着水見ゆる西病棟         近恵

 まさに「人間万事塞翁が馬」である。このような豪華なものを見ることができるのであれば、病院も悪いものではない。

桜の芽赤し地下鉄車両基地        近恵

 今日大抵の地下鉄は相互乗り入れになってしまったが、昔からある銀座線や丸ノ内線は専用軌道なので地下鉄車両基地というものが存在する。とりわけ丸ノ内線は起伏に富んだ地形を走行しているので地上区間が多く、地上に地下鉄車両基地が実在し、あの独特な赤い車両のたまり場となっている。そこに折しも桜の芽が赤を競うようにふくらんでいるのである。これは東京ローカルな感慨かも知れない。

2011年1月31日月曜日

きざし3

あはゆきのほどける音やNHK     宮本佳世乃
菜の花の半分枯れて家族かな      宮本佳世乃
空港や中学生の壊れぬ虹        宮本佳世乃


 二物衝撃は、多くの場合、季語を含まない長いワンフレーズと季語を取り合わせる(便宜上、A型と呼ぶ)。が、宮本佳世乃はそうでないパターンにも挑戦している。すなわち、季語を含む長いワンフレーズと、(季語ではない)関係の薄い語との取り合わせである(便宜上、B型と呼ぶ)。多くの場合A型であるのは、文芸の伝統を背負った季語が象徴性を持ち得るからである。例えば、「菊の香や奈良には古き仏たち 芭蕉」であれば、「菊の香」は「奈良の古い仏たち」を象徴している。
 さて、掲出句はいずれもB型である。この場合、季語でない「NHK」「家族」「空港」は、象徴性を持ち、季語を含む長いワンフレーズと等価に釣り合うことができるのか。

あはゆきのほどける音やNHK     宮本佳世乃

 淡雪のほどける音など現実には耳にすることはできないのかも知れない。あたかもハイビジョンを駆使して制作された放送作品であるかのような、現実と虚構のはざまで、いま作者の感性が研ぎ澄まされている。仮に「あはゆきのほどける音やフジテレビ」だったら、こんな読みは成り立たない。ということは「NHK」は象徴としてじゅうぶん機能しているといえよう。
 
菜の花の半分枯れて家族かな      宮本佳世乃

 この家族のイメージは切ない。でも多かれ少なかれ、家族というのは内側から見るとそんなところがあるのではないか。近くで見ると半分は枯れていてがっかりさせられることもあるけど、ちょっと離れてみればまだまだ鮮やかな黄色で力を与えられるのだ。「家族かな」に万感の思いがある。この場合、「家族」が季語を含む長いワンフレーズを象徴しているかというと、どうも違うようである。B型ではあるが、A型のように季語の方が象徴の機能を負っているようである。

空港や中学生の壊れぬ虹        宮本佳世乃

 「中学生の壊れぬ虹」というワンフレーズがすでにそれ自体が詩であり、単純に意味的な解決を求めることはできない。はかない本来壊れゆくべきものを、あり余る青春のエネルギーで暴力的に守り抜いたような奇妙な味わいがある。それと「空港」を取り合わせているのである。これは深い。そう言われてみれば、「空港」とはそういう奇妙な空間のような気がしてくる。万人に受け入れられるかどうかは分からないが、この説明しきれない意味的な壊れ具合にこそ、B型の存在理由があるような気さえする。佳世乃ワールドは、そのような奇妙な空間を内包しつつ、膨張し続けているのである。

2011年1月30日日曜日

きざし2

若葉風らららバランス飲料水      宮本佳世乃

 句会に行くと推敲好きな人がいて、例えば仮に「若葉風バランス飲料水を飲む」(改悪例)みたいな句を見ると、「『飲む』はいらないんじゃないかな。『バランス飲料水』を句またがりにして下五に持って行った方が落ち着くな。『若葉風○○○バランス飲料水』。○○○のところは自分で考えて下さい」などという。○○○は人によって「ららら」と発音されたり「たたた」と発音されたりする。
 この句がそういうプロセスを経て作られたものかは定かではない。たぶん違うだろう。が、そんなことがあったりもするので、この「ららら」には一回しか使えない手でやられてしまった感がある。この句によって、以後人類は永遠に「ららら」を俳句に使用できなくなったのである。季語のさわやかさもあいまって、「ららら」が実に決まっている。五十歳代以上の人なら「鉄腕アトム」の主題歌(谷川俊太郎作詞)をも思い出すかも知れない。

2011年1月22日土曜日

きざし

 『炎環新鋭叢書シリーズ5 きざし』(ふらんす堂)を読む。最初に宮本佳世乃さん。
 まずは第一印象で八句。

桜餅ひとりにひとつづつ心臓      宮本佳世乃
 「ひとりにひとつづつ心臓」という当たり前の事実に対して季語を配合している句のようにも見えるが、桜餅を目の当たりにして詠んだ句のようにも思えてくる。桜餅の不思議な曲面が、こう並べられると心臓となんとも響き合っているではないか。

さうめんの水切る乳房揺れにけり    宮本佳世乃
 「桜餅」に続いて「さうめん」。佳世乃句には食べものの句が多い。とも言えるし、「心臓」に続いて「乳房」。佳世乃句には身体部位の句が多い。とも言えるし、後の句にもあるように、佳世乃句には「や」「かな」「けり」といった切れ字が、自然に取り込まれている、とも言える。その場合でも、いかにも俳句のようなつらをして、詠んでいる内容は佳世乃ワールドである。なんら過剰な思い入れもなく、言い放たれた「乳房」と「けり」が実によい。

夕焼けを壊さぬやうに脱ぎにけり    宮本佳世乃
 散文には翻訳できない。叙情的な句であるが、俳句の長さ以上の余分な感傷はない。ここでも「けり」が決まっている。

弁当の本質は肉運動会         宮本佳世乃
 これは可笑しい。「弁当の本質は肉」だけで実に可笑しいし、こんなふうに「本質」ということばを使われると、世間のうるさ型の「本質を理解していない」とか言う議論好きな人たちに「ざまあみろ」と返したくなるほど痛快である。「運動会」も単刀直入でよい。

ひまはりのこはいところを切り捨てる  宮本佳世乃
 どこということはできない。作者が明示しない以上「ひまはりのこはいところ」でしかないのだが、ひらがな表記によって旧仮名遣いが誇張され、なんだか定かでない不気味さが迫ってくる。その不気味さをそのまま残して詠むということをせず、スパっと「切り捨てる」ところに佳世乃句の味わいがある。

鬼百合の雌蘂に触れてしまひけり    宮本佳世乃
 たっぷりと俳句の長さを用いている。詠んでいる事実は「鬼百合の雌蘂に触れた」だけであるが、ここでも「けり」が決まっていて、すべての一語一語が機能し始め、性の呪いのようなものを感じる。俳句マジックであり、佳世乃マジックである。

ともだちの流れてこないプールかな   宮本佳世乃
 これは切ない。豊島園の「流れるプール」だろう。その固有名詞があってこその「流れてこないプール」である。こんな今ふうの情景が「かな」を用いた俳句形式へすっぽり収まる、その収まり具合が楽しい。ともだちが流れてこないまま、時が俳句の中に定着している。

しまうまの縞のつづきのぼたん雪    宮本佳世乃
 ひと続きに「しまうまの縞のつづきのぼたん雪」と詠み放ったところがよい。これも散文には翻訳できない。具体的な細部の欠落した夢のようなモノトーンの心象風景を感じる。