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2017年1月25日水曜日

どんどん伸びる犬のひも

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。これまでいくつかの特徴を見てきたが、今回はそれ以外も排除しないあっけらかんさについて。

  けむりから京都うまれし桜かな

 この句集には、旧態依然のまったく普通の俳句も排除せず含まれている。掲句は、いくつかの戦乱を経ていま眼前の霞に包まれる京都を詠んで揺るぎない。

  西瓜切る西瓜の上の人影も

 なにかのパロディーではないかとさえ思わせる、手垢にまみれた俳句らしい俳句である。意外なことに『ただならぬぽ』には、このような句も含まれている。

  海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  少女基礎的電気通信役務や雪


 「誰か空を」の章に顕著だが、この句集では「ヒトラー」「軍艦」「戦争」「原子炉」などの語が少なからず現れる。掲句は「誰か空を」の章以外から採ったものだが、「海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆」「戦争やはたらく蛇は笛のよう」などの句に見られる「原爆」や「戦争」から、作者の社会的な見解は伺い知ることはできない。これらは他のほとんどの句と同様、語と語の衝突に意外性を見出し、その衝突から立ちのぼる意味を作者自身が、骨董でも賞翫するようにして句にまとめる作り方をしているからである。そのような作り方においては、「原爆」も「戦争」もまったく異種の「基礎的電気通信役務」と同じで、素材としての変わった言葉でしかない。ここで、「原爆」や「戦争」を排除するやり方もあろうが、田島健一は敢えてあっけらかんと、そうしない。
 以前このブログで鳥居真里子『月の茗荷』について触れたとき、「昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです」と書いたが、田島健一も飼っている犬が違うだけで、長いひもであることは同じなのだ。

 『ただならぬぽ』、まだまだ名残惜しいが、この辺で筆を置くこととする。

2017年1月24日火曜日

臥薪嘗胆

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、句型とか口語とかについて。
 句型についていうと、田島健一の句は有季定型の中のかなり自由な立場に位置するということになるだろう。季語についてはざっくり夏なら夏で、その中での初夏、仲夏、晩夏の前後などほとんど気にしていないし、五七五は多くの場合、自在に句またがりされ、それでいて全体で十七音のところに着地し踏みとどまるものが多い。そんな中、口語の句がいくつかある。

  鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
  いまも祈るよ音楽の枯野を牛
  流氷動画わたしの言葉ではないの
  菜の花はこのまま出来事になるよ
  戦争したがるド派手なサマーセーターだわ
  クラスメイトは狐火よ信じる鈴


 先に田島健一の句はぜんぜん孤高じゃないと書いたが、そう感じさせる要因のひとつは、これらの句が持つ舌っ足らずな人なつっこさのせいだろう。句集という単位でまとめて田島健一の世界に接する場合、これらは持ち味として賞味されるだろうが、伝統的な句会の場でこれらの句が一句一句の単位で匿名で出されたら、連衆はどう読んだのだろう。一句として立つことを前提として、「甘い」とか「ゆるい」とか酷評を受け続けてきた歴史があったのではないだろうか。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 そんななか臥薪嘗胆、田島健一がたどり着いた境地が「ぽ」だったのではないか。そんな気がしてならない。

2017年1月23日月曜日

颱風の眼

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「見る」とか「眼」への固執について。
 句集全体を通じ「見る」「見える」「見つめる」「ながめる」、あるいはその器官としての「眼」「まなこ」を詠み込んだ句がじつにおびただしい。一般論でいえば、見ているから対象を詠めるのであって「見る」はわざわざ言う必要がなく、そのぶん別のことを表現しましょう、なんて話になりがちなものだが、田島健一の場合はどうか。菅官房長官のように「その批判にはあたらない」「まったく問題ない」と言えるのか。何句か見てみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る

 玉葱や包丁や俎を「見る」と詠んでいるのであればそれは当然不要であるが、この句で見ると言っているのは「いにしえ」である。「いにしえ」が眼前のものでない以上、まったく問題ない。母にせがんで玉葱を切らせてもらった日、飯盒炊爨の河原、恋人と過ごしたアパートの一室、あるいは小説の一場面。そんな自分の/他人のさまざまないにしえが、玉葱の強烈な匂いとともにまざまざとよみがえる、そんな脳への働きかけのありようを「直接」と言っているのだ。

  枇杷無言雨無言すべてが見える

 目に見えるものとして「枇杷」と「雨」のふたつを挙げ、ことさらに「無言」のリフレインによって聴覚情報がないと言っている。しかもそのうち「枇杷」はもともと音を発するものではない。そこで切れがあり、「すべてが見える」と言っているのだが、この「すべて」が「枇杷」と「雨」のふたつでないことはあきらかである。ここで「見える」と言っているのは、目に見えることではなく、五感を超えて襲ってくる既視感ともいうべきものではなかったか。あるいは「永遠」ともいうべきものではなかったか。

  満月に眼のあり小学校の石

 満月に眼があるなら、満月の光の及ぶところはすべて遮るものなく見えるはずだ。目の前の小学校の校庭の石のような小さいものであっても、はるか彼方の月から見えるはずだ、という科学者のような論理的思考を、俳句の方法で断定している。この眼には全能感がある。

  颱風の眼にいて猫を裏がえす

 困ったことだ。書かれている通りの句のはずなのに、この句集の中に置かれると、「颱風の眼」というあまねく知られた語でさえ、特別な意味を持っているのではないかと思い始めてしまう読者の自分がいる。なんということだ。

2017年1月22日日曜日

なにもない雪のみなみ

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「ひかり」とか「かがやき」への固執について。
 いったいどれだけ「ひかり」とか「かがやき」の句を句集に入れたのだろう。直接「ひかり」ということばで詠んだ句だけでなく、「虹」とか「晴」とかも含めると相当な数に上る(もちろんたかだか有限個なので数えれば分かるのだが、そんな無粋なことはしない)。さらに「雪」、「白鳥」「鶴」などの白い鳥。方角も印象に残るのは「南」ばかりである(実際に他の方角は一句も句集に入れてないのかもしれないが、確かめるような無粋なことはしない)。

  いなびかり包装の達人といる
  白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
  なにもない雪のみなみへつれてゆく


 適当に三句ピックアップしてみた。別の句を取り上げれば別の印象になるのかも知れないが、スピリチュアル俳句になりがちなひかりもの系において、田島健一の句にはあまりその傾向がない。まず孤高性がまったくない。誰かといたり、誰かの声が聞こえたり、誰かを連れて行ったり…。それでいて「包装の達人」からはプレゼントの金銀のシールや花束を包むセロファンなどが想起され、よくぞそんな変な達人といることを句に詠んだものだと思うし、二句目であれば白鳥型遊覧船が運行しているような湖畔のレストランのメニューらしき「白鳥定食」という変なものをよくぞ句にしたものだと思う。そのようにして、気がつくと無意味のディテールの快楽のような世界に読者は連れて行かれ、そしてさらにディテールすらない無意味に連れさられる。それが「なにもない雪のみなみ」という地点だ。

 参考までに橋本多佳子の光の句を紹介しておく。両方よむと田島健一の光の句がどれほど無意味で、それゆえたまらなくいとおしいか気づくはずだ。

2017年1月21日土曜日

周到さを感じさせない無意味

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。ひとつ前の記事で「ライトでポップ」と書いた。まったくこの軽さはなんなのだろう。感情からも知性からも自由で、ただそこに無意味なものがなぜだかかっこよく存在する感じ。表紙についても触れようか。シンプルな装丁は、しかしながらひかりの加減で海月のイラストが見え隠れするようになっていて、横書きで配置されたタイトルのフォントがまたポップでありながら、選び抜かれた字体となっている。聞けば「モトヤアポロ」というフォントらしい。句集全体万事がそんな感じで、周到さを感じさせないようにあしらわれている。





 この句集、読んでいるといくつか気がつくことがある。「ひかり」とか「かがやき」への固執。「眼」とか「見る」への固執。特定の季語や語彙への固執。ことばあそびへの固執。かといってそれ以外も排除しないあっけらかんさ。そんなものの偶然で奇跡的な複合体なのではないか。

2017年1月20日金曜日

ことばあそびについて

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、ことばあそびについて。この句集には、ことばあそびからなる句が多々含まれ、句集全体をライトでポップに印象づけることに貢献している。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ
 
 「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え、「海」も含め全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。語調を整えるというよりは、語調を頼りに予想外の語彙を呼び込むことの快楽があるのではないか。ここでは「ひかがみ」。語調を頼りにでもしなければ、海で水着の人物を詠むのにわざわざ膝の後ろのくぼんでいるところなんて部位は選ばない。「ぞぞぞ」はオノマトペというよりは、「かが」「みみ」という訥弁的な連なりへの呼び込みとして働いているようである。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 このような句型で間投詞を選択する際、「よ」とか「ぞ」とか「や」とか迷うのが常であるが、結局どこかで見たような句に落ち着き間投詞としての驚きや詠嘆は薄れてしまう。芭蕉は「切れ字に用ふるときは四十八字皆切れ字なり」と言った。間投詞だって同じではないかと田島健一が考えたかどうかは定かではないが、結果としてただならぬ仕上がりになっている。くらげの表記には「水母」と「海月」があるが、光を追い抜くのであれば断然「海月」だろう。

2017年1月19日木曜日

章のこと

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、章のことを考えてみたい。先に書いたようにこの句集はやたら細分化されている。そこに積極的な意図はあるのか、ないのか。

 「記録しんじつ」と題された章は、次の句からなる。
 
  翡翠の記録しんじつ詩のながさ
  端居してかがやく知恵の杭になる
  玉葱を切るいにしえを直接見る
  口笛のきれいな薔薇の国あるく
  枇杷無言雨無言すべてが見える


 一句目、三句目、五句目から感じることは、言語で書かれているのに言語を自己否定しているような趣である。「詩のながさ」では追いつかず、「直接見る」こと、「無言」なのに「すべてが見える」こと。そして既成の価値を笑い飛ばすように脱力的なひらがなの「しんじつ」「かがやく」「いにしえ」「きれい」「すべて」。どうも章としてこれらの句群は効力を発揮しているようである。

 適当に開く。「揺れている」と題された章は、次の句からなる。

  昼寝より覚めて帆のない船はこぶ
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  虎が蠅みつめる念力でござる
  出航や脳に白夜の大樹あり
  明滅や夕立を少女は絶対
  揺れている硝子の青田道あなた
  紫陽花を仕立てる針と糸のこと
  ひけらかす死のかりそめを明るい雨季
  薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ


 ひとつの句の中で提示されたイメージは、別の句に乱反射して影響を及ぼす。そういう意味では、まさに題のように「揺れている」。二句目の「はたらく」は一句目の「帆のない船はこぶ」の影響を受け三句目の「虎」は二句目の「戦争」の影響を受け四句目は全体が一句目の「帆のない船」の影響を受け五句目の「明滅」は四句目の「白夜」の影響を受け六句目の「あなた」は五句目の「少女」の影響を受け七句目の「仕立てる針と糸」は一句目の「帆」や五句目の「少女」の影響を受け八句目の「死」は二句目の「戦争」の影響を受け「雨季」は五句目の「夕立」の影響を受け九句目の「あなた」は六句目の「あなた」であり、そのようにして章全体が「揺れている」。

2017年1月18日水曜日

翡翠

田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。

  翡翠の記録しんじつ詩のながさ

 巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の伝達手段のなんと間抜けなことよ。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば、霊感に満ちたこの句もこの際思い出しておこう。

  父の恋翡翠飛んで母の恋 仙田洋子

2017年1月17日火曜日

同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界

 しばらく待望の田島健一第一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)について書く。
(著者からご恵送頂きました。ありがとうございます。)

 本の厚さからすると三百句くらい収録かと思われるが、章立てが非常に細かく、四十七章に及ぶ。俳句の読者だけを想定した章立てではないのだろう。題のついた一編の現代詩に相当するものが章で、詩の一行一行にあたるものがそれぞれの句であるようでもあり、そうでないようでもあり、一句一句の作風、章内の並べ方はひとこと自在に尽きる。
 思い当たったのはビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の中の一曲、ジョン・レノンが書いた「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」だ。サーカスを題材にした歌詞の中、「それにもちろん/馬のヘンリーがワルツを踊ります」(片岡義男訳)とともに曲調が一変、三拍子に転じるのだが、その音響がカラフルを極める(とりわけ1:53以降の後奏)。プロデューサーのジョージ・マーティンは、数々の音色の録音された磁気テープを同じ長さに切ってランダムにつなぎ合わせたというが、田島健一のこの句集は、たまらなくそれを思い出させる。『ただならぬぽ』とは、同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界なのだ。
 なお、石寒太氏の序文は川端茅舎の句集に寄せた虚子の序文(写真)を踏まえている。