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2011年12月29日木曜日

ためしに壺に活けてみる

句集を読んでいると、ある句が自分の知っている別の人の句と自分の中で吊り橋が落ちるように激しく共振し出すことがあります。そんな句たちを同じ壺に活けてみるのも楽しいかも知れません。

腹筋をたっぷりつかい山眠る 渋川京子
山眠る等高線を緩めつつ   広渡敬雄

 いずれも「山眠る」の句としては、かなりトリッキーなものでしょう。京子句、腹式呼吸して眠る山を思うと、人間の営みなどほんの地表のささいなものなのでしょう。敬雄句、そもそも地図上の概念であって実在しない等高線をコルセットのように捉えた見立てが実に可笑しいです。

梅咲いて身にゆきわたる白湯の味  渋川京子 
ひとりとは白湯の寧けさ梅見月  太田うさぎ

 つい先日、うさぎ句について「酒豪ならではの句でありましょう」と書いたばかりなのですが、渋川京子さんにも白湯の句があって、奇妙な暗合に驚いています。白湯の味を梅の花と配合させた京子句、「ひとりとは白湯の寧けさ」だという感慨を梅の時期と配合させたうさぎ句、どちらも五臓六腑にしみわたります。

枇杷の花谺しそうな棺えらぶ  渋川京子
行春やピアノに似たる霊柩車  渡邊白泉

 磨き上げられた棺は、言われてみれば確かに谺しそうです。また黒光りする霊柩車は確かにその色艶の具合においてピアノのようです。音や楽器の比喩は、いささか不謹慎といえば不謹慎ですが、俳人たるもの、そう感じてしまうのを禁じ得るものではありません。京子句、ここではまったく谺しそうもない、もっさりとした枇杷の花を配合していて、じつに渋いです。

俳句というフラワーアレンジメント

刈萱を投げ入れ壺をくつろがす 渋川京子

 活ける草花によって、壺も緊張を強いられたり、そうでなかったりするのでしょう。壺が単なる器ではなく、草花と呼応して生命を得る配合の機微を思います。「投げ入れ」と「くつろがす」の把握が絶妙です。

逝く人に本名ありぬ青木の実 渋川京子

 してみると、ある種の二物衝撃はフラワーアレンジメントそのものなのです。「センセイ」と呼んでいた人が松本春綱という本名を持っていたことを思い知らされるような、そんな場面は、お互いを俳号で呼び合う私たち俳人仲間のあいだでもたまにあることです。「青木の実」のくっきりとした斡旋がじつに見事です。

空蝉の好きな人なり

空蝉の目と目離れて吹かれおり  渋川京子
空蝉に好きな場所あり呼ばれおり

 渋川京子さんはぎょっとするほど、空蝉の好きな人なのです。あるとき喫茶店でやっている句会に、「みんなに見せようと思って」と、空蝉を箱に入れて十ばかり持っていらしたことがあります。居合わせた俳人一人一人に一個ずつ空蝉を配り、「この、目が透き通ったあたりが可愛いでしょう。まるで生きているみたい」などとおっしゃるのです。で、最後は「こんなもの渡されてもお困りでしょうから」と、回収してまた丁寧に箱に入れ、持って帰られたのでした。掲句はそんな渋川京子さんの一面を伺わせる句です。
 二句目は蝉の習性として脱皮にふさわしい場所があるのでしょう。それを「呼ばれおり」ととらえる感性が、じつにキュートです。

渋川京子の光と闇

渋川京子さんについては『レモンの種』(ふらんす堂)を上梓された際に書かせて頂いたので(右側のラベルからたどることができます)、そのときに触れなかった句を今回は取り上げます。

夏夕べ鏡みずから漆黒に 渋川京子

 ちょっと前までは、よほど暗くなるまで電気なんかつけなかったものです。虚なのか実なのかというと虚の書き方をしているわけですが、郷愁の中の夏夕べの光の具合をとらえて過不足ありません。

月光に聡き兄から消されけり 渋川京子

 これも同様に光を題材とした虚の句。「聡き兄から消されけり」のs音、k音が実に繊細で怖ろしいではありませんか。

2010年2月10日水曜日

渋川京子『レモンの種』余談

 ついでながら、『レモンの種』を出版したふらんす堂の編集者の方のブログに、渋川京子さんの写真がある。すてきである。

 同じブログの別の日の記事では、序文、跋文、あとがきの一部を簡潔に引用して『レモンの種』を紹介している。

2010年2月9日火曜日

渋川京子『レモンの種』6

 最後に紹介するのは、この句。
 
さくら餅たちまち人に戻りけり  渋川京子

 いろいろな読みはできると思うが、「たちまち人に戻」る前は、どこか途方もないところへつながっていたのであり、この世ならざるかなしみの声に耳を傾けていたのだと感じる。さくら餅というささやかな、ある世代以降にはおそらく理解不能な和菓子が、この世に戻ってくる契機であることがなんとも嬉しい。人生にはまだ、ささやかながら喜びがいくらでもある。そんな希望がこの句からは感じられるのである。

 まだまだご紹介したい句は多々あるが、この辺で筆を置くこととする。取り上げなかった句については、ぜひ直接『レモンの種』(ふらんす堂)をお手にとって味わって頂きたい。

2010年2月8日月曜日

渋川京子『レモンの種』5

 渋川京子は未亡人である、と書き出したら失礼に過ぎるだろうか。歳を重ねて生きることは、伴侶、肉親、親しかった人々の死と直面し、それを受け入れて行くことに他ならない。死を直接詠んだ句では、このような句がある。
 
良夜かな独りになりに夫が逝く   渋川京子
なかんずく白菊に堪え死者の顔
死にゆくに大きな耳の要る二月
死者もまた旅の途中か春の蝉
出棺のあとさきに滝現われる


 「良夜かな」の句以外は、どなたが亡くなったのかは明示されていない。「良夜かな」の句にしても、「独りになりに夫が逝く」の揺るぎない措辞は、もはや渋川京子のパーソナルな体験以上のところへ昇華されている。死を直接詠んだ句においても、滝が現れる。この滝は「いちにちの赤きところ」で鳴っている滝であり、この世ならざるかなしみの声に他ならない。渋川京子にとって、未亡人として生きて行くことは、その声を伝えることなのである。

われら紅葉夫あるなしにかかわらず

 老境に生きる喜びとかなしみを詠んだこの句が、しずかに私の胸を打つ。

2010年2月7日日曜日

渋川京子『レモンの種』4

 渋川京子は水でできている。すくなくとも作句に向かう意識の中では、そのように自覚されている。そして、その水はときにエロスを湛え、ときにかなしみを湛えている。あるいはエロスとかなしみは渋川京子にとって同義である。

海鳴りをこぼしつつ解く夏の帯 渋川京子
夏帯のなかひろびろと波の道
水中花一糸まといて咲きいたり
氷柱よりきれいに正座し給えり


 夏帯の句はいささか類型的かも知れないが、一転して氷柱の句はどうだろう。なんと引き締まった美へのあこがれだろう。「給えり」と尊敬の助動詞で詠まれた架空の対象は、他者のようでいて渋川京子の美意識に他ならない。

 そして、渋川京子は水に包まれている。見えない水を感じて溺れ、闇を水のように湛えている。

水際の匂いこもれる菊枕
まっさきに睫が溺れ蛍狩
見えぬ手を濡らしたっぷり昼寝する
緑陰を抜けて両袖水浸し
雛飾り川の満ち引き映る家
船着場まで陽炎にもたれゆく
水吸って人の匂いの苔の花
霧深し自分を寝押しするとせん
紫蘇をもむ満々と夜が湛えられ


 かたちを変えつつ確かに存在する見えない水に包まれるとき、渋川京子はこの世にしてこの世ならざるところに身を置いている。いっけんただの客観写生に過ぎない雛飾りの句や船着場の句でさえ、句集全体の中に配置されるとき、妖しげな気配を放ち出す。

【追記】
『―俳句空間―豈weekly』2008年10月18日土曜日号で、渋川京子について書かれている。その記事を見ると「氷柱」の句は句集収録以前の発表形では以下だったことが分かる。

氷柱よりきれいに母の正座かな

 具体的な「母」を消して「し給えり」と結んだ推敲が、じつに見事である。

2010年2月4日木曜日

渋川京子『レモンの種』3

 例えばこんな句はどうだろう。
 
一枚の葉書の広さ秋の夜    渋川京子
間取図に足す月光の出入り口
秋風鈴夜は大きな袋なり


 いずれも空間把握の句であるが、二句目の風狂な味わいはどうだろう。前述の「覗き穴」のように、空間が空間として完結してなく、どこか途方もないところへつながっている。三句目の「夜は大きな袋なり」の大きさも計り知れない。
 
はればれと布団の中は流れおり 渋川京子
仏壇のなかは吹き抜け鳥帰る

 同工異曲と言うなかれ。単なるレトリックではなく、そういうものを感じ続けて、俳句に置き換える作業を続けてきたのが渋川京子であるに違いない。

2010年2月3日水曜日

渋川京子『レモンの種』2

 例えばこんな句はどうだろう。
 
鳴り止まぬ耳から蝶をつまみ出す 渋川京子
末黒野やつかわぬ方の脳が鳴る

「鳴り止まぬ耳」はまだ自覚的な身体感覚にまつわる比喩として読めるが、「つかわぬ方の脳」は、というと、野焼きに呼応して、ヒトの古い部分がなにやら呼び覚まされているのであろう。「つかわぬ方の脳」という把握が、なんとも楽しいではないか。

2010年2月2日火曜日

渋川京子『レモンの種』

 渋川京子『レモンの種』(ふらんす堂)は、かれこれ四十年近い俳歴を持つ著者の満を持した処女句集だが、とにかくすごい。もしこの日記を読んでいるあなたが句集を出そうとしているなら、今年はやめた方がいい。絶対勝ち目がない(もちろん、勝ち負けで俳句をやっているわけではないんだけど…)。しばらく、この句集について書く。

いちにちの赤きところに滝の音  渋川京子
潮うごく前のしずけさ桃にあり
鳥渡る風にいくつも覗き穴


 これらの句は、俳句以外の表現では代替不能で、散文にパラフレーズすることは不可能だし無意味である。それなのに、ずっと昔から「いちにちの赤きところに滝の音」がすることを知っていたような感じが確かにするし、「潮うごく前のしずけさ」が桃にあったような気がするし、「風にいくつも覗き穴」があったような既視感がある。既視感がありながら、そんなふうに詠んだ人はいない。人のこころのある局面を、まさに「覗き穴」から客観写生のクールさで言い止めたような静謐な味わいがある。
 「いちにちの赤きところ」にありつつ「滝の音」を聴きとめる姿勢は、句集全体(あるいは渋川京子の俳句的生涯)を貫いていて揺るぎない。