死にたくも泳ぎの手足動くなり 表鷹見
これは身に覚えがあるが、人間の意思は生命体としての本能には無念ながら勝てない。表鷹見の句はしばしば生のやるせなさを身にまとう。
凍死体海に気泡がぎつしりと
「水死体」でも「溺死体」でもないので、凍死体と海の位置関係に迷うが、海に浸かっているものとして読む。人間に限らず、海はありとあらゆる死体を糧として生命を循環させる系をなす。不浄極まりない「海に気泡がぎつしりと」というディテールの描写が生々しく迫る。
海の中に島あり霏々と雪積る
海にも島にも分け隔てなく雪が降っているのだが、海に降るものは解け、島だけに雪が積もりゆく。叙景の句であるが、言い知れぬ寂寥感がある。
母といふ愛(かな)しき人に月が照る
先に「父の葬列父の青田の中通る」を見たが、残された母の心中はいかばかりなものか。それは踏まえた上で、なお「母といふ愛(かな)しき人」という措辞が伝記的事実を越えて胸を打つ。
胸までの麦生にて縛られしごと
「縛られしごと」は言うまでもなく麦の生育のさまを詠んだものではなく心象だろう。またしてもやるせない。
雪永く積もりて嶽は世と隔つ
『天狼』第七巻第三号には誓子門下ならではの連作が四句続く。「外界より見るや即ち雪の嶽」「嶽の中安らかに雪降り積もる」「雪の嶽聖なる域と異ならず」と続いた最後が掲句である。外側から概観し、内側の状態を捉え、空間的な連続性を詠んだ最後に、その永遠性において「世と隔つ」のだと謳っている。
降る雪やかすかな髪のにほひして
表鷹見には嗅覚の句がいくつかある。「強烈な枯野のにほひ農婦来る」「冬夜サーカス百姓達の臭ひ満つ」「二代のマント体臭親子とて違ふ」「酒臭き身にて焚火をはじめたり」…。文字通り強烈な句が多い中で掲句は「蛍籠女のにほひかもしれぬ」とともに繊細な雰囲気が漂う。雪が降れば外界の音が断たれる。かすかな髪のにほひと同じ空間にいる、息づかいや心臓の鼓動まで聞こえてきそうではないか。
稲妻が犬の白さに驚けり
もちろん稲妻が驚いたのではないだろう。「稲妻に照らし出された犬の白さ」をぐっと詰めて「稲妻が犬の白さ」と詠み韻律に乗せている。そんな「が」が見事である。
性病院に目鼻つけたる雪だるま
面白いものを見つけたものだ。性病院の先生にももちろん家族がいて、雪が降れば子どもが雪だるまをこしらえもしよう。それが結果としてはとんでもなく意表を突いた取り合わせとなる。そこをすかさず詠んでいる。
なお、巻末の八田木枯による「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」の初出は、とある会社の社内報に寄せられたものだというが、文献として第一級の貴重なものである。西東三鬼、平畑静塔、橋本多佳子らが日吉館で徹夜の句会をやっていた時期に表鷹見、八田木枯らが山口誓子にお伺いを立て句誌『星恋』を立ち上げる経緯や、二十五歳ほど歳の違う橋本多佳子との交流などが、橋本多佳子の句集『紅絲』の評論と渾然一体となって綴られていて、じつに興味深い。
余談となるが、八田木枯晩年のとある句会のあとで、あるとき若いめいめいが木枯さんにねだって句をコースターに書いてもらったことがあった。私が書いて頂いたのは「多佳子恋ふその頃われも罌粟まみれ 木枯」(『あらくれし日月の鈔』所収)だった。言うまでもなく「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき 多佳子」を踏まえたものだ。今回発掘された「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」は、その「罌粟まみれ」の具合や多佳子の「寂しきとき」の様子を伝えるものなのだった。
(了)
2017年9月21日木曜日
2017年9月20日水曜日
『星恋 表鷹見句集』(2)
みごもりて蛇を提げくる人に会ふ 表鷹見
作中主体がみごもっているのか、蛇を提げくる人がみごもっているかであるが、表鷹見は男性であり、作中主体の移動は他の句には見られないので後者だろう。隠喩的な一句である。
父の葬列父の青田の中通る
生命感のみなぎる青田を葬列が通る。故人となった父がついこのあいだ苗を植えた青田。万感のリフレインである。
石炭を雪ごと焚きて汽車疾し
蒸気機関車の運転台の後ろには、水と石炭を格納する炭水車が連結されている。炭水車の石炭には覆いがないので、雪が降れば当然石炭を雪ごと焚くことになる。先に掲げた「氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり」にも通じ、委細構わぬ機関士の仕事ぶりが目に浮かぶ。西東三鬼にも「雪ちらほら古電柱は抜かず切る」という句があるが、委細構わぬ仕事ぶりの句は探せばいろいろあるのだろう。ちなみに誓子は「雪ごと焚きて汽車疾し」を因果と捉え「選後独断」でこんなことを書いている。
この句は何故にこんなに面白いのであらうか。先づ石炭を雪ごと焚いたことが面白い。石炭と雪とは、氷炭相容れずの氷と炭である。相容れざる石炭と雪とを突如として連絡し、それ等を共に焚くことによつて、両者の矛盾を一挙に解決したのである。
これは謂ふところのウィットであつて、快感はそこから起るのである。
次に雪まじりの石炭が汽車を疾く走らしたことが面白い。雪は汽車を走らす力とはなり得ない。しかしそれが石炭と共に焚かれることによって火力となり、汽車を疾く走らしたと云ふのだ。そこが面白いのである。
この句にはそれ等二つの面白さがうち重つてゐるのである。
誓子にみえるものが私にはまったく見えていないようである。
(続く)
作中主体がみごもっているのか、蛇を提げくる人がみごもっているかであるが、表鷹見は男性であり、作中主体の移動は他の句には見られないので後者だろう。隠喩的な一句である。
父の葬列父の青田の中通る
生命感のみなぎる青田を葬列が通る。故人となった父がついこのあいだ苗を植えた青田。万感のリフレインである。
石炭を雪ごと焚きて汽車疾し
蒸気機関車の運転台の後ろには、水と石炭を格納する炭水車が連結されている。炭水車の石炭には覆いがないので、雪が降れば当然石炭を雪ごと焚くことになる。先に掲げた「氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり」にも通じ、委細構わぬ機関士の仕事ぶりが目に浮かぶ。西東三鬼にも「雪ちらほら古電柱は抜かず切る」という句があるが、委細構わぬ仕事ぶりの句は探せばいろいろあるのだろう。ちなみに誓子は「雪ごと焚きて汽車疾し」を因果と捉え「選後独断」でこんなことを書いている。
この句は何故にこんなに面白いのであらうか。先づ石炭を雪ごと焚いたことが面白い。石炭と雪とは、氷炭相容れずの氷と炭である。相容れざる石炭と雪とを突如として連絡し、それ等を共に焚くことによつて、両者の矛盾を一挙に解決したのである。
これは謂ふところのウィットであつて、快感はそこから起るのである。
次に雪まじりの石炭が汽車を疾く走らしたことが面白い。雪は汽車を走らす力とはなり得ない。しかしそれが石炭と共に焚かれることによって火力となり、汽車を疾く走らしたと云ふのだ。そこが面白いのである。
この句にはそれ等二つの面白さがうち重つてゐるのである。
誓子にみえるものが私にはまったく見えていないようである。
(続く)
2017年9月18日月曜日
『星恋 表鷹見句集』(1)
『星恋 表鷹見句集』(玻璃舎 2017年)をお送り頂く。いろいろな人に広く表鷹見のことを知ってほしいので、読み終わったら誰かに回すようにとのこと。
表鷹見(1928-2004)は俳誌『天狼』などで活躍した俳人。本句集は『天狼』遠星集から七十句ほど、同じく『天狼』から「残夢抄」と題された十八句、その他俳誌『ウキグサ』『星恋』からの句も含め全体でおよそ百句ほどが収録されている(途中、八田木枯選三句、鷹見自選三句があり、『星恋』には「遠星集」に発表した句も資料としてそのまま重複して収録されている)。また、遠星集入集分のうち十句については山口誓子による「選後独断」と題された評文があり、当時の評価ぶりが偲ばれる。さらに巻末には「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」という平成13年に書かれた八田木枯の二段組16ページに及ぶ文章も収録されている(出典の記載はなく未完。(その一)から(その四)まで分かれているので、『晩紅』あたりに連載されたものか)。こちらは俳誌『星恋』をともに世に出した八田木枯が、行方不明の表鷹見に対し「君」として宛てて、橋本多佳子などをめぐり当時の俳句情勢を回顧したものである。
以下、三島ゆかりなりに何句か読んでみたい。いくつかは誓子が「選後独断」で取り上げた句と重なるが、他意はない。
雪原へ出れば犬とも獣とも 表鷹見
道路も田畑も埋め尽くした一面の雪原を犬がまっしぐらに突っ走る。人間と暮らす我を忘れて動物の本性をさらけ出すさまを、「犬とも獣とも」と詠んでいる。
氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり
『天狼』初年の頃は家庭用電気冷蔵庫も発泡スチロールも普及していなかっただろう。ちょっと検索してみると、かつて最善な断熱材とされたのはノコギリくずだったという。掲句、委細構わぬ氷屋の仕事ぶりが見えるようだ。
凧よりも少年濡れてかへるなり
八月三十一日に放送された「プレバト」(TBS系)で、たまたま「ずぶ濡れのシャツより甲虫取り出す 中田喜子(夏井いつき添削)」という句があった。そのすぐあとで掲句に出会ったので、雨が降ってきたから着物の中になんとか凧を濡れないように隠して帰宅したのだと、なんの抵抗もなく思う。一方、誓子は「選後独断」でこんなことを書いている。
雨は、少年と凧とひとしく濡らしたにちがひない。合理的鑑賞家は「凧よりも少年濡れて」を理性に合せずとするだろう。そして理性に合はしむる為め、少年が凧をかばつたとするだらう。それで理性の虫はをさまるかも知れぬ。しかし私にはこの「凧よりも少年濡れて」の非合理性が却て私の感情に合するのである。
「理性に合せざるも感情に合するもの」---自意識派はこれを解するの明を養ふべきである。
どうも私は自意識派と分類されるらしい。
(続く)
表鷹見(1928-2004)は俳誌『天狼』などで活躍した俳人。本句集は『天狼』遠星集から七十句ほど、同じく『天狼』から「残夢抄」と題された十八句、その他俳誌『ウキグサ』『星恋』からの句も含め全体でおよそ百句ほどが収録されている(途中、八田木枯選三句、鷹見自選三句があり、『星恋』には「遠星集」に発表した句も資料としてそのまま重複して収録されている)。また、遠星集入集分のうち十句については山口誓子による「選後独断」と題された評文があり、当時の評価ぶりが偲ばれる。さらに巻末には「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」という平成13年に書かれた八田木枯の二段組16ページに及ぶ文章も収録されている(出典の記載はなく未完。(その一)から(その四)まで分かれているので、『晩紅』あたりに連載されたものか)。こちらは俳誌『星恋』をともに世に出した八田木枯が、行方不明の表鷹見に対し「君」として宛てて、橋本多佳子などをめぐり当時の俳句情勢を回顧したものである。
以下、三島ゆかりなりに何句か読んでみたい。いくつかは誓子が「選後独断」で取り上げた句と重なるが、他意はない。
雪原へ出れば犬とも獣とも 表鷹見
道路も田畑も埋め尽くした一面の雪原を犬がまっしぐらに突っ走る。人間と暮らす我を忘れて動物の本性をさらけ出すさまを、「犬とも獣とも」と詠んでいる。
氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり
『天狼』初年の頃は家庭用電気冷蔵庫も発泡スチロールも普及していなかっただろう。ちょっと検索してみると、かつて最善な断熱材とされたのはノコギリくずだったという。掲句、委細構わぬ氷屋の仕事ぶりが見えるようだ。
凧よりも少年濡れてかへるなり
八月三十一日に放送された「プレバト」(TBS系)で、たまたま「ずぶ濡れのシャツより甲虫取り出す 中田喜子(夏井いつき添削)」という句があった。そのすぐあとで掲句に出会ったので、雨が降ってきたから着物の中になんとか凧を濡れないように隠して帰宅したのだと、なんの抵抗もなく思う。一方、誓子は「選後独断」でこんなことを書いている。
雨は、少年と凧とひとしく濡らしたにちがひない。合理的鑑賞家は「凧よりも少年濡れて」を理性に合せずとするだろう。そして理性に合はしむる為め、少年が凧をかばつたとするだらう。それで理性の虫はをさまるかも知れぬ。しかし私にはこの「凧よりも少年濡れて」の非合理性が却て私の感情に合するのである。
「理性に合せざるも感情に合するもの」---自意識派はこれを解するの明を養ふべきである。
どうも私は自意識派と分類されるらしい。
(続く)
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