2012年7月31日火曜日

詩レ入句会(6)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】
片蔭の果つるあたりに呼ばれけり  ゆかり  銀ら苑七
香水は碁盤黒眼鏡は零番      ゆかり
炎昼を仕込む豚骨スープかな    ゆかり  銀ら令裕苑七
忽然と暗渠途切れる緑かな     ゆかり  銀ら
緑陰を婆婆婆と仕舞ひけり     ゆかり  ら七
 

2012年7月24日火曜日

詩レ入句会(6)出題


Ⅱ章 余白論の試み
3 幻肢としての余白、俳句・短歌(P.045)

 前回は文語定型詩で大変なことになってしまいましたが、今回は私たちのホームグラウンドなので、考えようによってはもっと大変です。そもそも私たちは連 句実作者/俳句実作者としてここに集うわけですが、仁平勝が提示し北川透が共感する<幻肢としての下句>なるものを、ほんとうのところ、実作者として私た ちは感じながら作句しているのでしょうか。

 北川透は仁平勝の俳論集『詩的ナショナリズム』に収められている「虚構としての定型」から次のくだりを引用します。

《さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の"定型"の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その"定型"自体のうち に、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさ ら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音韻律そのものの本質的不安定さなのだ。そして「切れ」とは、すなわちこの<幻肢としての下 句>から切れる方法意識にほかならない。》(「虚構としての定型」)

 これを受けて北川透は次のように続けます。

 この《幻肢としての下句》という考えは魅力的である。それをわたしは余白の概念でとらえ直すことで、詩としての共通の場所を用意したいと思う。もともと 短歌の上句(五七五)が、連歌の発句として下句(七七)から切れ、更に、蕉風においてその切字が意識化されることで、俳句は詩型として独立した。しかし、 短歌の下句(七七)は余白として、いつまでも俳句につきまとっているわけではない。七七が切れて俳句が詩型として自立したとたんに、もはや七七は消失し、 ただ、余白だけが意識されるのだ。もし、切れた尻尾である七七をつけてみたくなるような句があれば、それは俳句として失格にちがいない。だから《幻肢とし ての下句》という言い方を借りれば、<幻肢としての余白>とか<幻体としての余白>という言い方も同時に成り立つし、それらの幻の手や足は俳句に無数に生 えており、余白として、沈黙を表現している。

 というわけで、今回の出題です。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】5句くらい
投稿締切:7月28日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。
 

2012年7月19日木曜日

五吟歌仙・ゆふぐれの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   ゆふぐれの舌の薄さや著莪の花        令
    生まれつつあるはつなつの闇      ゆかり
   元栓は閉めたはずだが気になつて      銀河
    鳩吹く人の仰ぐなかぞら       まにょん
   一陣の風に水面の月ゆれて        らくだ
    拍子木の音たかき地歌舞伎         令
ウ  酒癖の悪き郎党ばかりなり          り
    一目惚れしたその腕つぷし         河
   序の口に乗れば染まつてゆくからだ      ん
    藍の褪めたる衣まとへば          だ
   雑巾を固くしぼつて作務開始         令
    餅肌いまや皸の日々            り
   氷下魚釣る糸を滑りし月の影         河
    胸張り少年大志抱けと           ん
   うたひつつTOKIOが走るCMの      だ
    制作室をよぎる星蝕            令
   代々を花読みとして床にあり         り
    ここで別れる楠若葉道           河
ナオ 振り向けば春の波間に人魚の尾        ん
    姉はいつでも妹思ひ            だ
   坪庭にすずめのための米を撒き        令
    いづかたよりか金鵄鳳凰          り
   美しき髯をしごきて憂ひをり         河
    泥鰌鍋にて手打といたす          ん
   妖刀に呪符貼りつけて封印し         だ
    仮面舞踏にはじまりし恋          令
   茉奈のふりしてゐる佳奈にからかはれ     り
    奄美諸島へ梅雨の前線           河
   月光に濡るるサバニの櫂を漕ぐ        ん
    玉手箱から出づる穂芒           だ
ナウ 手を振ればをちかた人は霧のなか       令
    薬指からとれぬ飯粒            り
   封筒を貼る工賃の如何ばかり         河
    冴返る夜に読む経絡図           ん
   それぞれの壺の中には花吹雪         だ

   陽炎の馬車呼びて去りなむ          河 
 
 起首:2012年 5月 1日(火)
満尾:2012年 7月19日(木)
捌き:ゆかり

2012年7月10日火曜日

詩レ入(5)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

●作品6--------------------------------------ゆかり

 紫陽花十二号

十二分発の紫陽花十二号
一路神州鞄には銀の横笛
眼中のもの皆みどりゆつくりと
回転しをる大地平畝といふ畝

香草の名を連ねたる歌ありて
妙なり夢の如きなり三つ編みの頃
級長の姉のふくらみ地上には
母の紫陽花地上には祖母の紫陽花

等速度運動の雨やはらかに
力士を濡らす奉納の大樹の下に
発光し魚の時間を律動し
陸といふ家具くつがへす海といふ意味

まづ構へ嚇と見開きややあつて
嘘つくやうに笛を吹くなり

2012年7月8日日曜日

巣箱のように空き家のように

週刊俳句に【週俳7月の俳句を読む】巣箱のように空き家のようにという記事が掲載されました。生駒大祐さんのに感想を寄せています。ほぼ絶賛。

2012年7月7日土曜日

愛すべきゲテモノ5枚



DUKE ELLINGTON (Original Album Series)



 1963年から1966年までのエリントンのアルバム5枚を集めたもの。もはやビッグ・バンドは過去の遺物となりつつあったというべきか、異色の作品群である。それでいて、なにをやってもエリントンはエリントンなのであって、ファンにはたまらない愛すべきゲテモノ5枚である。

(1)Will Big Bands Ever Come Back? (1963)
 ある意味ではアルバム・タイトルの通りで、古いビッグ・バンドのヒット曲集。"ONE O'CLOCK JUMP", "TUXEDO JUNCTION", "ARTISTRY IN RHYTHM", "RHAPSODY IN BLUE"など12曲。エリントン・ナンバーとしては"DON'T GET AROUND MUCH ANYMORE"を収録。
 
(2)Duke Ellington's Jazz Violin Sessions (1963)
 ステファン・グラッペリと、エリントニアンであるレイ・ナンスのvnなどをフィーチャーしたスモール・コンボによる作品。曲により、ビリー・ストレイホーンも参加。

(3)Duke Ellington's Walt Disney's Mary Poppins (1964)
 かの『メリー・ポピンズ』のナンバーが濃厚なエリントン・サウンドに変わり果てていて味わい深い。

(4)Ellington '65
 60年代前半のヒット曲集で、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「モア」「思い出のサンフランシスコ」など。果てはディランの「風に吹かれて」まで。

(5)Ellington '66
 こちらはなにしろPLAYS THE VERY GREAT HITSだからもっとすごい。「シャレード」「酒とバラの日々」「ムーン・リバー」「愛さずにはいられない」など。果てはビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」「抱きしめたい」まで。