夕涼し男女の坂は交わらず 越智友亮
しばしば登山道や参道の勾配で急坂を男坂、ゆるい坂を女坂と呼ぶが、その両方をまとめて「男女の坂」としたのが手柄だろう。男坂と女坂は交差しないという当たり前のことを敢えて句にした面白みに留まらず、恋愛をテーマにした句群の中においては「男女の坂は交わらず」が曰く言い難く効いている。
肝臓の仕事思えば金亀子 越智友亮
摂生のことか何かを考えていたのをひっくり返す下五の脈絡のなさがいい。昨今はどの家にもエアコンが当たり前になってしまったが、昔はカーテンの裏の窓の隙間から金亀子は思いがけず飛び込んでくるものだった。そんな時分を懐かしく思い出させる下五である。
手のひらは甲に逢わざる晩夏かな 越智友亮
手のひらと甲は表裏の関係なので、掃いて捨てるほどある「当たり前の事実+季語」のパターンではあるが、これも前々句同様恋愛をテーマにした句群の中においてはなんとも切ない。
パンタグラフ開いて通す青葉風 佐川盟子
開いてなくてもその上を風は通っているはずだが、菱形に開くことによって、目には見えない風をそこに見てとる人の不思議がある。青葉風が心地よい。ところで昨今はシングルアーム型とか翼型のパンタグラフもあって、それはそれで催す感興が異なるだろう。どんな新しい句が生まれるものやら。
午後五時を告げる音楽あすは夏至 佐川盟子
ゴゴゴジ、ゲ、ガと濁音をたたみ掛け、季語も濁音の連鎖が呼び込んだものだろう。現実界の郷愁を誘う「家路」とか「夕焼小焼け」の調べとはまったく感触のことなる、異界ともいうべき句に仕上がっている。
夏館配電盤に木の扉 佐川盟子
ニス塗りの木の扉を開けると陶製の安全器が数個ビス止めされているのだろう。ひょっとすると廊下辺り、見えるところにむき出しで碍子や経年変化した電線が走っていたりもするのかも知れない。レトロ俳句である。
中心をろくろに探る夏の雨 佐川盟子
「中心をろくろに探る」の助詞「を」「に」がなんとも適切である。ひとことも言わずに濡れた粘土を感じさせる「夏の雨」もまた絶妙である。
トランペット吹く梅雨空を歪ませて 笹木くろえ
「梅雨空を歪ませて」になんとも初心者の鬱屈した心情が感じられる。小音量では練習にならず、大音量が出せる場所は河原などに限られ、楽器のコントロールもままならない恥ずかしい大音量が世界を歪ませている。もし仮にトランペットは吹くのが当たり前だから「吹く」はいらないなどと添削してしまったら、作中主体の鬱屈した心情は消滅し、マイルス・デイビスの沈痛なサウンドのような世界に一変してしまうだろう。
これからといふとき胡瓜ねぢまがる 笹木くろえ
胡瓜は株が老化して根の活性が落ちると、先細りや曲がり果が増える。そうならないよう、株が小さいうちはわき芽・花芽を摘み、根茎を充分に発達させておく必要がある。
夏桑や地図から消えし村の空 笹木くろえ
ダム建設による水没などで土地そのものが消滅したのか、市区町村の統廃合で自治体としての村が消滅したのか。前者なら夏桑は記憶の中のものであろうし、後者なら実景だろうが、いずれにせよ空は変わらずそこにある。
桜の実薬買ふ人ここで待つ 佐藤文香
季語から想像されるのは屋外なので、車で乗りつける密売人を待っている非合法薬物取引現場なのだろうかと妄想はあらぬ方へ向かう。しかも次の句は「兄弟の腕冷えてゐるジギタリス」である。仁義を交わした男たちが互いの腕に注射を打ち合うのだろうか。
石を摑み木へとあをすぢあげはかな 佐藤文香
蝶が花でも葉でもなく石に止まることがある。揚羽ともなれば羽は石より大きいので、浮揚する刹那、ついそのまま石を摑んで行くような妄想が広がる。
友情や水着のごとく花カンナ 佐藤文香
友情なんて言葉が出てくるときは、まず破ったり破られたりする事態に直面しているのだろう。「水着のごとく花カンナ」が激情的かつ官能的である。
鼻撫でし手のひらやさし夏の馬 谷 雅子
「夏の馬」の前で切れているので、<私の鼻を撫でたあなたの手のひらがやさしい。眼前の夏の馬のように私の心が駆けている>という読みが順当だろうか。でもどこか、馬が人間に対して詠んだ句のようでもある。季語が動物だと、ときどきそんな可能性が出てくる。
遅き日の過去の映画の予告編 羽田野 令
「遅き日」という俳句ならではの言い回しの季語を用い、「過去」「予告」と時間軸で揺さぶりをかけて興じている。
山滴る流れはずいと湖心曳き 羽田野 令
不勉強にして「山滴る」は初めて見た季語である。「滴り」とは異なり、「夏の山の青々とした様子をいう」のだそうだ。そんな中、川の流れがずいと湖心を曳くという漫画のような着想が楽しい。
葛ざくら水のゆらぎを皿の上 八田夕刈
葛ざくらのぷるぷるした質感や透過性を「水のゆらぎ」と的確に捉えて過不足ない。見事な写生句である。
プールの底一直線に歪みをり 八田夕刈
「歪んだら直線ではないではないか」というあたりを敢えてそのように詠んだところに可笑しみがあるとともに、じつにその通りだと思う。
クロールの素顔真顔と入れかはる 八田夕刈
一定のテンポで顔を水中に向けたり横に向けて息継ぎしたりするさまを詠んでいるわけだが、「素顔」「真顔」というもともとの言葉が、おそらく一緒に並べることなどあまりないものなので、なんとも言えず可笑しい。水中が素顔で、息継ぎが真顔なのだろうか。言葉の意味をあらためて読者に問いかける仕上がりとなっている。
食べこぼす朝は八時の冷奴 村井康司
かつて俳誌『恒信風』の連載記事「真神を読む」で三橋敏雄の上五の複合動詞たたみ掛けについて「カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドのごとき破壊力を持つ必殺技」と形容した村井康司が、十五年後に同じ技法を用いてこのような脱力句を書いていると思うと、その落差がなんだかひどく楽しい。
虫干の色紙に毒気消え去らず 大上朝美
なんの色紙だろう。いずれにせよ、書いた人との往時の交流がまざまざと思い起こされるような記載内容と筆致なのだろう。
借景のおほかた隠す夏の庭 大上朝美
草蓬々となってしまったのか、年月をかけて樹木が成長し生い茂ってしまったのか。それもまた風情ではあろう。
危険物貯蔵所に人春の昼 寺澤一雄
本来の管理業者なのかも知れないが、滅多に立ち入らぬ場所に人がいるとぎょっとする。そんな雰囲気をすくい取っている。
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