2009年8月21日金曜日

鳥居真里子『月の茗荷』3

集中、バッソ・オスティナートのように繰り返し現れる語として「母」と「鶴」があります。

陽炎や母といふ字に水平線  鳥居真里子
永眠のはじめは雪となりし母
ゆく春や盥の水は母に似て
母性液体父性は固体茄子の馬


 三好達治のあまりにも有名な一節「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」を踏まえてひねりを加えたであろう「母といふ字に水平線」があざやかです。
 「永眠のはじめは雪となりし母」は、現実界の天候にとどまらず冥界への道程に思いを馳せることになる語順配置が絶妙です。
 母性を液体ととらえた「ゆく春や盥の水は母に似て」「母性液体父性は固体茄子の馬」は、私の頭の中で先日紹介した正木ゆう子の「死もどこか寒き抽象男とは」と響き合っています。

2009年8月20日木曜日

鳥居真里子『月の茗荷』2

こころいま朧膨れとなりにけり 鳥居真里子

「朧膨れ」という造語を前に、いまひとたび歳時記で「朧」を見てみましょう。

【朧 おぼろ】春は大気中の水分が増加し万物が霞んで見えることが多い。その現象を昼は霞というのに対して、夜は朧という。(以下略。『合本俳句歳時記第四版』より)

 つまり時間は夜であり、本来くっきり存在するはずのものが輪郭を失った状態であることが、「朧膨れ」という造語によって、特異な身体感覚とともに表現されているのです。他に余計なことをつけ加えず、「となりにけり」と十七音いっぱいに引き延ばすことによって、例えば「春愁」のような手垢にまみれた言葉とはぜんぜん違う心象世界が現れています。そして、にもかかわらず「朧」という言葉の引力によって、どこか王朝和歌のようなみやびさ、妖艶さも感じられます。これから何度も春になるたび、この句を思い出してみることでしょう。

2009年8月19日水曜日

鳥居真里子『月の茗荷』

 『月の茗荷』は鳥居真里子の第二句集。昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです。

嗽するたびに近づく銀河かな    鳥居真里子
姉ふたり闇のたぐひの福笑
蛇は川わたし日傘に入ります
野菊咲く豆電球のおいしさう
人体と空のからくり桃咲けり
老人を逆さに見ればあやめかな
地球とは硝子の柩つばめ来る
こころいま朧膨れとなりにけり


 本能と直結しているはずの「おいしさう」の対象は「豆電球」だし、「こころ」は「朧膨れ」という造語によって形容されています。この巧妙に作者から遠く配置されたテキストのシュールさは、なんなのでしょう。

2009年8月18日火曜日

正木ゆう子『夏至』4

かと思えば、こんな可笑しな句も。

啄木鳥の脳震盪を心配す    正木ゆう子
夜更しの螢は置いて帰りけり
ひさかたの光通信にて御慶


以下、好きな句です。

空蟬となりしばらくは蟬を待つ
飛魚の滞空に日の鋼なす
直角に斜めに雪の交差点
面をもて接す二つのしやぼんだま
棕櫚縄の夜雨に締まる山桜


 いずれも繊細にして印象のはっきりした句で、とりわけ「直角に斜めに雪の交差点」は雪が降るたびにきっと思い出すに違いありません。

2009年8月17日月曜日

正木ゆう子『夏至』3

そして季節がめぐり…。

青萩や日々あたらしき母の老い 正木ゆう子
老いも死も父先んじて母に夏

さかのぼって、第三句集『静かな水』から。

母の日の母にだらだらしてもらふ

セレクション俳人『正木ゆう子集』から。

父の日の父は梯子と右往左往

 こんなふうに俳句があざやかな家族のアルバムとして残っているのが、すごいと思います。