掲示板で巻いていた連句が満尾。
葉脈のみるみる伸びる立夏かな 伸太
薫風わたる河岸段丘 ゆかり
国境を超える列車に身をおきて 媚庵
ユーロ紙幣で払ふ飲み代 銀河
天上の時計が零す月の砂 りえ
死角にはまだ竈馬棲む 七
ウ 素のままに眠り素のまま夜食とる 桃子
捩(よぢ)れる君の手にするタオル 太
腸を抱へて笑ひ明易し り
走る男と泳ぐ女と 庵
西之島けふもむづかる気配あり 河
螺髪凍むまで月を弄(ろう)する え
戯れ言をまるめてほかすまみ穴へ 七
二度確かめる空の封筒 子
船便の埠頭に上ぐる麻袋 太
犬の視線で沫雪を追ふ り
仇討ちの噂ながれる花の山 庵
映画果つるも遅き日の暮 河
ナオ ジーンズの旗揺れてゐるビルのうへ え
いくつになれど飛ぶのが怖い 七
目をつむりバニラアイスは永遠に 子
虹を濡らして窓の水滴 太
いくたびか爆発ののち焼け落ちる り
戦場を吹き抜ける夕風 庵
今帰りましたカプセルホテルから 河
メイド相手に詩魂を論ず え
かげろふの日記読みつつひとり夜は 七
ペンにじませて稲の音聞く 子
山の端の望月さらに登らんと 太
どさと崩るるハードSF り
ナウ 信念で人工知能には負けぬ 庵
夢の中まではびこりし青 河
さぶらひてさぶらひどちの腕相撲 え
呟くやうに鷽は鳴くらし 七
新聞を綺麗にたたむ花の午後 子
来ては睦みて消ゆる双蝶 太
起首:2017年 5月10日(水)
満尾:2017年 6月20日(火)
捌き:ゆかり
2017年6月14日水曜日
(19)俳句ソフト不正使用問題
二〇一六年に世を騒がせた将棋ソフト不正使用問題は、疑いをかけられ出場停止処分を受けた棋士に将棋連盟が慰謝料を払うことで双方が合意し和解した、と今年五月二十四日に発表があった。まずはめでたしであるが、技術の進化が第二、第三の同種の問題を引き起こすであろうことは想像に難くない。俳句界とて同様であろう。
さて、我らが「はいだんくん」を実作支援に使用しようと考えたとき、これはどうにも使い勝手がよくない。ユーザインターフェースが「次の一句」ボタンしかないのがなんとも物足りないのだ。やはり、ユーザが自分で季語や特定の語句を入力でき、それを用いた句を返すようなものでないと、実作支援には使えないだろう。いくつかの改善策を考えてみる。
◆季語 「はいだんくん」の季語は、現在日付をもとにその日使えるものをランダムに返している。二十四節気や忌日も登録されているので、今日から小暑か、とか今日は重信忌か、とか気づくのには役に立つが、数ヶ月後に発行される原稿の季節には合わない。デフォルトは現在日付で構わないが、日付はユーザが指定できるようにしたいではないか。
◆語彙 句会で出題される兼題/席題をそのまま指定してロボットに作らせたいではないか。余談ながらスマホの角川合本俳句歳時記アプリでは全文検索という機能があり、季語だけでなく検索ができる。例えば「告ぐ」で検索すると、〈癒え告ぐるごとく北窓開きけり 佐藤博美〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨〉がヒットする。これは紙の歳時記ではできない便利な機能である。
◆差し替え ロボットが作った句が、大体いいんだけどここがねえ、という場合、大体いいところは固定して、ここがねえというところを部分的に差し替えたい。
◆複数案表示 デジカメでブラケット撮影というのがあり、露出とかホワイトバランスとかISOとかを少しずつ変えて、一回のシャッター押下で複数枚の写真を撮ることができる。であれば、「はいだんくん」でも季語を上五、中七、下五に置いた三案を表示すると
か、季語だけ異なる三案を表示するとかあると、ユーザがそうそう、これこれと選べるではないか。
このくらい便利になれば実作支援に役立つことだろう。ところで、俳句のことをよく知らない人に、俳句には歳時記というものがあって、そこには季語の意味と例句が載っていて、俳人は歳時記を引きながら俳句を作るのだという説明をしたら、「え、それってカンニングじゃないの」と言われた。そこか…。
(『俳壇』2017年7月号(本阿弥書店)初出)
さて、我らが「はいだんくん」を実作支援に使用しようと考えたとき、これはどうにも使い勝手がよくない。ユーザインターフェースが「次の一句」ボタンしかないのがなんとも物足りないのだ。やはり、ユーザが自分で季語や特定の語句を入力でき、それを用いた句を返すようなものでないと、実作支援には使えないだろう。いくつかの改善策を考えてみる。
◆季語 「はいだんくん」の季語は、現在日付をもとにその日使えるものをランダムに返している。二十四節気や忌日も登録されているので、今日から小暑か、とか今日は重信忌か、とか気づくのには役に立つが、数ヶ月後に発行される原稿の季節には合わない。デフォルトは現在日付で構わないが、日付はユーザが指定できるようにしたいではないか。
◆語彙 句会で出題される兼題/席題をそのまま指定してロボットに作らせたいではないか。余談ながらスマホの角川合本俳句歳時記アプリでは全文検索という機能があり、季語だけでなく検索ができる。例えば「告ぐ」で検索すると、〈癒え告ぐるごとく北窓開きけり 佐藤博美〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨〉がヒットする。これは紙の歳時記ではできない便利な機能である。
◆差し替え ロボットが作った句が、大体いいんだけどここがねえ、という場合、大体いいところは固定して、ここがねえというところを部分的に差し替えたい。
◆複数案表示 デジカメでブラケット撮影というのがあり、露出とかホワイトバランスとかISOとかを少しずつ変えて、一回のシャッター押下で複数枚の写真を撮ることができる。であれば、「はいだんくん」でも季語を上五、中七、下五に置いた三案を表示すると
か、季語だけ異なる三案を表示するとかあると、ユーザがそうそう、これこれと選べるではないか。
このくらい便利になれば実作支援に役立つことだろう。ところで、俳句のことをよく知らない人に、俳句には歳時記というものがあって、そこには季語の意味と例句が載っていて、俳人は歳時記を引きながら俳句を作るのだという説明をしたら、「え、それってカンニングじゃないの」と言われた。そこか…。
(『俳壇』2017年7月号(本阿弥書店)初出)
ラベル:
ロボットが俳句を詠む
2017年6月4日日曜日
『鏡』二十三号を読む
マフラーの渦ワッフルの香を運ぶ 笹木くろえ
勢いのある句である。「マフラーの…」「ワッフルの…」という外来語のたたみ掛けがそう感じさせるのだろうか。「フラ」「フル」という響きの繰り返しがいいのかも知れない。「マフラーの渦」がなんともエネルギーの場を感じさせる。
大丈夫のなかにある嘘冬苺
『鉄腕アトム』に「うそつきロボットの巻」というのがある。ロボットは本来本当のことしか言わないのだが、余命幾ばくもない老人の介護のため、わざと回路を逆にしたロボットが騒動を起こす印象深い作品である。そんなものを引き合いに出すまでもなく、老人や病人に直面した場合、私たちは嘘をつく。良心は冬苺のように酸っぱい。
参加者を聞いて欠席闇汁会
ほんとうの闇汁会を知るはるか以前に私は『巨人の星』で刷り込まれてしまった。漫画の話ばかりで恐縮だが、青雲高校の伴宙太が主催した闇鍋は、料理の煮えた鍋に部員めいめいが持ち寄った下駄やエキスパンダーをぶち込むのだった。伴宙太の闇汁会なら私も欠席したい。という話はさておき、微妙な感情のしこりというのはある。特に俳句のつながりというのは、俳句の作風の相性で広がってゆき、気がつくと職業も信条も生活水準もまったく異なる人と句座をともにしていたりする。俳句を作るのでなければ遠慮したいこともいろいろあろう。
外套を外套掛けのやうに着る 村井康司
「外套」「外套掛け」というリフレインで読ませる作りになっているが、そもそも「外套掛け」ってどんなものだろう。真っ先に思い浮かべたのは、身の丈ほどの棒の先が放射状になっていて、外套の首のところだけ引っかけるようなもの。これだと肩はだらりとなる。であれば「外套掛けのやうに着る」とは袖を通さずにぶかぶかの外套をだらっと羽織ることなのか。もしかすると男物の外套を痩身の女性が羽織っているのかもしれない。
大寒のバリトンサックス少女隊
バリトンサックスは首の前で管が一巻きしてあって、見るからに肺活量が要求される。それを少女が吹くのであれば不憫で悲壮なビジュアルが現出する。ましてや隊である。ましてや大寒である。
新春の早口言葉しやししゆしえしよ
「新人シャンソン歌手による新春シャンソンショー」みたいなものだろう。平仮名表記の「しやししゆしえしよ」がなんだかくすぐったい。
ろくじうのてならひとして日向ぼこ
同じようなものだが、旧仮名表記の効果を知り尽くした「ろくじうのてならひ」と「日向ぼこ」というオチのばかばかしさがじつに楽しい。技巧の垂れ流しっぷりがすばらしい。
凍星のぐらつく乳歯心地かな 越智友亮
乳歯が抜ける直前のぐらつくもどかしさの身体感覚の記憶と現在の不安定な心象を重ねたものだろう。現実とほど遠い理想のような「凍星」も効いているし、「ぐらつく」「心地」のG音の頭韻も効いている。
ペン二本あひだに二物年詰る 大上朝美
俳句などやっているとつい二物といえば二物衝撃を思い出してしまう。そのような習性をついて「二本」「二物」とたたみ掛けて下五に季語を置いている。「二物」はこの場合、二物衝撃には関係なくて、コップでも消しゴムでもいいのだが具体的に示す必要のない、採るに足らないものであろう。そのような眼前のありようというか空気感が、なんとも年の瀬だ言っているのである。
思ふこと言はねば忘れ枇杷の花
何人かで話をしていると、自分が口を開くタイミングを見計らっているうちに、言いたかったことを忘れてしまうことがある。枇杷の花もどこか忘れられてしまった感があるので、響き合っている。ところで人間、歳をとると、言おう言おうとタイミングを見計らっていた状態なのか、すでに発言した状態なのかが分からなくなって、同じことを何度でも何度でも言うようになる。その段階に進んだ俳句もいずれ拝見したい。
去年今年グーグルアースいつも昼 佐川盟子
グーグルストリートビューは、十一個のカメラを取り付けた球体を載せた車両で撮影し、その写真を縫い合わせるようにして三百六十度のパノラマにしているらしい。とはいえ、パソコンで地球外からだんだん拡大して迫ると、ついまさに今の時間の映像が見えるような錯覚を抱いてしまう。「いつも昼」はその錯覚をついて巧いこと云ったものだし、「去年今年」もばかばかしくてよい。しかしながら、二十四時間いつもまさに今の時間の映像が見えたら、それはそれで怖い。
ふゆといふとき唇のふたしかに 八田夕刈
外国語など習わなければそんな感覚を獲得することはなかったのかも知れないが、日本語のハ行、とりわけ「フ」の発音は難しい。ネットによれば、日本語の「フ」は、無声両唇摩擦音というもので、fの無声唇歯摩擦音ともhの無声声門摩擦音とも異なるらしい。その辺の微妙な感じを掲句は平仮名表記の駆使により言い止めている。
暁光の身のまつさらに初湯かな
なぜそんな時間に入浴しようとしているのか事情は定かでないが、新年のあらたまった気分を感じる。
有りつ丈の雪撒くといふ空の色
これは今、雪は降っているのだろうか。眼前に雪が降っているのなら空の色など触れないと思うし、これから降るのだったら「有りつ丈の」という措辞は得られないだろうとも思う。降りが小休止した状態で空の様子を見て詠んだのではないか。
冬木立の向かうの方へ人を置く 羽田野 令
絵とか写真とかの構図決めの場面だろうか。生活者ではなく美のための駒に過ぎない感じの「人を置く」がよい。
親族のなまあたたかし松の内
松の内くらいしか会わないような親族なのだろうか。ちょっとめんどくさい気分も「なまあたたかし」からは感じられる。
満潮の小春の島へ着きにけり 谷 雅子
ことさらに潮位に触れているのは、引き潮の時だけ歩けるとか満ち潮の時の水没し具合がうつくしいとか、いわくがある名所なのだろう。小春がなんとも穏やかな気分である。
家族として撮られに並ぶ梅の花 佐藤文香
照れくさくってなどと逃げ回っていても、人生の節目には家族写真に収まっておくものである。「梅の花」からは、未来のある幸福を感じる。
どんぶり一杯の蝦蛄どんぶり一杯の殻に 寺澤一雄
殻を剥く前の蝦蛄と、剥いたあとの殻とが、かさとして全然変わらないことに興じて句を仕立てたものだろう。
船で来て乗る鉄道や残る菊
途中で手段が変わることを詠んだ一雄句としては『虎刈』に「クロールで行きて帰りは平泳」があり、跋文の辻桃子を絶句させている。なんとも寺澤一雄的な句風である。
体育館ほどに大きな家の夜業
間仕切りの少ない農家のような空間を想像すればよいのだろうか。人間が小さく見えるだだっ広い空間の中で夜業にいそしんでいる。「体育館ほどに」の誇張が楽しい。
勢いのある句である。「マフラーの…」「ワッフルの…」という外来語のたたみ掛けがそう感じさせるのだろうか。「フラ」「フル」という響きの繰り返しがいいのかも知れない。「マフラーの渦」がなんともエネルギーの場を感じさせる。
大丈夫のなかにある嘘冬苺
『鉄腕アトム』に「うそつきロボットの巻」というのがある。ロボットは本来本当のことしか言わないのだが、余命幾ばくもない老人の介護のため、わざと回路を逆にしたロボットが騒動を起こす印象深い作品である。そんなものを引き合いに出すまでもなく、老人や病人に直面した場合、私たちは嘘をつく。良心は冬苺のように酸っぱい。
参加者を聞いて欠席闇汁会
ほんとうの闇汁会を知るはるか以前に私は『巨人の星』で刷り込まれてしまった。漫画の話ばかりで恐縮だが、青雲高校の伴宙太が主催した闇鍋は、料理の煮えた鍋に部員めいめいが持ち寄った下駄やエキスパンダーをぶち込むのだった。伴宙太の闇汁会なら私も欠席したい。という話はさておき、微妙な感情のしこりというのはある。特に俳句のつながりというのは、俳句の作風の相性で広がってゆき、気がつくと職業も信条も生活水準もまったく異なる人と句座をともにしていたりする。俳句を作るのでなければ遠慮したいこともいろいろあろう。
外套を外套掛けのやうに着る 村井康司
「外套」「外套掛け」というリフレインで読ませる作りになっているが、そもそも「外套掛け」ってどんなものだろう。真っ先に思い浮かべたのは、身の丈ほどの棒の先が放射状になっていて、外套の首のところだけ引っかけるようなもの。これだと肩はだらりとなる。であれば「外套掛けのやうに着る」とは袖を通さずにぶかぶかの外套をだらっと羽織ることなのか。もしかすると男物の外套を痩身の女性が羽織っているのかもしれない。
大寒のバリトンサックス少女隊
バリトンサックスは首の前で管が一巻きしてあって、見るからに肺活量が要求される。それを少女が吹くのであれば不憫で悲壮なビジュアルが現出する。ましてや隊である。ましてや大寒である。
新春の早口言葉しやししゆしえしよ
「新人シャンソン歌手による新春シャンソンショー」みたいなものだろう。平仮名表記の「しやししゆしえしよ」がなんだかくすぐったい。
ろくじうのてならひとして日向ぼこ
同じようなものだが、旧仮名表記の効果を知り尽くした「ろくじうのてならひ」と「日向ぼこ」というオチのばかばかしさがじつに楽しい。技巧の垂れ流しっぷりがすばらしい。
凍星のぐらつく乳歯心地かな 越智友亮
乳歯が抜ける直前のぐらつくもどかしさの身体感覚の記憶と現在の不安定な心象を重ねたものだろう。現実とほど遠い理想のような「凍星」も効いているし、「ぐらつく」「心地」のG音の頭韻も効いている。
ペン二本あひだに二物年詰る 大上朝美
俳句などやっているとつい二物といえば二物衝撃を思い出してしまう。そのような習性をついて「二本」「二物」とたたみ掛けて下五に季語を置いている。「二物」はこの場合、二物衝撃には関係なくて、コップでも消しゴムでもいいのだが具体的に示す必要のない、採るに足らないものであろう。そのような眼前のありようというか空気感が、なんとも年の瀬だ言っているのである。
思ふこと言はねば忘れ枇杷の花
何人かで話をしていると、自分が口を開くタイミングを見計らっているうちに、言いたかったことを忘れてしまうことがある。枇杷の花もどこか忘れられてしまった感があるので、響き合っている。ところで人間、歳をとると、言おう言おうとタイミングを見計らっていた状態なのか、すでに発言した状態なのかが分からなくなって、同じことを何度でも何度でも言うようになる。その段階に進んだ俳句もいずれ拝見したい。
去年今年グーグルアースいつも昼 佐川盟子
グーグルストリートビューは、十一個のカメラを取り付けた球体を載せた車両で撮影し、その写真を縫い合わせるようにして三百六十度のパノラマにしているらしい。とはいえ、パソコンで地球外からだんだん拡大して迫ると、ついまさに今の時間の映像が見えるような錯覚を抱いてしまう。「いつも昼」はその錯覚をついて巧いこと云ったものだし、「去年今年」もばかばかしくてよい。しかしながら、二十四時間いつもまさに今の時間の映像が見えたら、それはそれで怖い。
ふゆといふとき唇のふたしかに 八田夕刈
外国語など習わなければそんな感覚を獲得することはなかったのかも知れないが、日本語のハ行、とりわけ「フ」の発音は難しい。ネットによれば、日本語の「フ」は、無声両唇摩擦音というもので、fの無声唇歯摩擦音ともhの無声声門摩擦音とも異なるらしい。その辺の微妙な感じを掲句は平仮名表記の駆使により言い止めている。
暁光の身のまつさらに初湯かな
なぜそんな時間に入浴しようとしているのか事情は定かでないが、新年のあらたまった気分を感じる。
有りつ丈の雪撒くといふ空の色
これは今、雪は降っているのだろうか。眼前に雪が降っているのなら空の色など触れないと思うし、これから降るのだったら「有りつ丈の」という措辞は得られないだろうとも思う。降りが小休止した状態で空の様子を見て詠んだのではないか。
冬木立の向かうの方へ人を置く 羽田野 令
絵とか写真とかの構図決めの場面だろうか。生活者ではなく美のための駒に過ぎない感じの「人を置く」がよい。
親族のなまあたたかし松の内
松の内くらいしか会わないような親族なのだろうか。ちょっとめんどくさい気分も「なまあたたかし」からは感じられる。
満潮の小春の島へ着きにけり 谷 雅子
ことさらに潮位に触れているのは、引き潮の時だけ歩けるとか満ち潮の時の水没し具合がうつくしいとか、いわくがある名所なのだろう。小春がなんとも穏やかな気分である。
家族として撮られに並ぶ梅の花 佐藤文香
照れくさくってなどと逃げ回っていても、人生の節目には家族写真に収まっておくものである。「梅の花」からは、未来のある幸福を感じる。
どんぶり一杯の蝦蛄どんぶり一杯の殻に 寺澤一雄
殻を剥く前の蝦蛄と、剥いたあとの殻とが、かさとして全然変わらないことに興じて句を仕立てたものだろう。
船で来て乗る鉄道や残る菊
途中で手段が変わることを詠んだ一雄句としては『虎刈』に「クロールで行きて帰りは平泳」があり、跋文の辻桃子を絶句させている。なんとも寺澤一雄的な句風である。
体育館ほどに大きな家の夜業
間仕切りの少ない農家のような空間を想像すればよいのだろうか。人間が小さく見えるだだっ広い空間の中で夜業にいそしんでいる。「体育館ほどに」の誇張が楽しい。
2017年5月13日土曜日
(18)ロボットがつぶやく
私が制作してネット上に公開している俳句自動生成ロボットのシリーズは、それぞれツイート・ボタンによりツイッターと連携していて、句が気に入ったらそのままツイートすることができる。
『俳壇』誌向けに制作しているロボットは「はいだんくん」であるが、別に「ゆかりり」というロボットがある。「ゆかりり」は実物の三島ゆかりが作りそうな俳句を自動生成するロボットで、俳句実作上の奇想にとらわれると、それをロボットでやったらどうなるんだろうと、しばしばアイデアを「ゆかりり」に仕込んで試してみる。それでうまく行ったものを「はいだんくん」に移植したり「ロボットが俳句を詠む」の原稿のネタにしたりする。「ゆかりり」と「はいだんくん」はそういう関係で、「ゆかりり」はより先進的で、「はいだんくん」はより枯れている。
というわけで、開発者の私に関心があるのはむしろ「ゆかりり」の方で、ツイート・ボタンでツイートするのはもっぱら「ゆかりり」の句である。ロボットの作った句をツイートしても二三人が「いいね」を付けてくれるのが関の山だったのだが、ここへ来て「あわ・みかわ」さんという面識のない方が「ゆかりり」の句をかなりの頻度でツイートしてくれるようになった。私をなぞらえたロボットの句を他人がツイートするのを私が読むのはかなり奇妙な体験である。つい返信で短評してしまう。以下「ゆかりり」の句はあわ・みかわさんがツイートしたもので、短評は私。
彼女みなギリシャ彫刻春惜しむ ゆかりり
→「みな」によって「彼女」が複数であるところが眼目ですね。同時に複数人の彼女がいるのか、歴代の彼女なのか。「春惜しむ」にそこはかとない徒労感があります。
極楽や首都に遅れる抱卵期 ゆかりり
→「極楽」と「首都」、もしくは「遅れる」と抱卵期の「期」というふたつの対比が組み合わさることによって、微妙な意味の混乱が発生していますね。また「首都に遅れる」からは高度成長時代の残像が感じられます。
ブラウスの略し始める春暑し ゆかりり
→ぎゃ、非名詞の季語について手を抜いていることが露見している。非名詞の5音の季語を下五とする句型を登録するときに、春暑しとか風光るとか山笑ふとか、大抵のものは名詞+用言ではないかと、直前を連体形にして、変なことになってしまったようです。
この記事の読者の皆さんもせっかくですからツイート・ボタンでつぶやいて下さいね。
(『俳壇』2017年6月号(本阿弥書店)初出)
追記 ツイート・ボタンでつぶやくとハッシュタグがついて、こちらでまとめて読めます。
『俳壇』誌向けに制作しているロボットは「はいだんくん」であるが、別に「ゆかりり」というロボットがある。「ゆかりり」は実物の三島ゆかりが作りそうな俳句を自動生成するロボットで、俳句実作上の奇想にとらわれると、それをロボットでやったらどうなるんだろうと、しばしばアイデアを「ゆかりり」に仕込んで試してみる。それでうまく行ったものを「はいだんくん」に移植したり「ロボットが俳句を詠む」の原稿のネタにしたりする。「ゆかりり」と「はいだんくん」はそういう関係で、「ゆかりり」はより先進的で、「はいだんくん」はより枯れている。
というわけで、開発者の私に関心があるのはむしろ「ゆかりり」の方で、ツイート・ボタンでツイートするのはもっぱら「ゆかりり」の句である。ロボットの作った句をツイートしても二三人が「いいね」を付けてくれるのが関の山だったのだが、ここへ来て「あわ・みかわ」さんという面識のない方が「ゆかりり」の句をかなりの頻度でツイートしてくれるようになった。私をなぞらえたロボットの句を他人がツイートするのを私が読むのはかなり奇妙な体験である。つい返信で短評してしまう。以下「ゆかりり」の句はあわ・みかわさんがツイートしたもので、短評は私。
彼女みなギリシャ彫刻春惜しむ ゆかりり
→「みな」によって「彼女」が複数であるところが眼目ですね。同時に複数人の彼女がいるのか、歴代の彼女なのか。「春惜しむ」にそこはかとない徒労感があります。
極楽や首都に遅れる抱卵期 ゆかりり
→「極楽」と「首都」、もしくは「遅れる」と抱卵期の「期」というふたつの対比が組み合わさることによって、微妙な意味の混乱が発生していますね。また「首都に遅れる」からは高度成長時代の残像が感じられます。
ブラウスの略し始める春暑し ゆかりり
→ぎゃ、非名詞の季語について手を抜いていることが露見している。非名詞の5音の季語を下五とする句型を登録するときに、春暑しとか風光るとか山笑ふとか、大抵のものは名詞+用言ではないかと、直前を連体形にして、変なことになってしまったようです。
この記事の読者の皆さんもせっかくですからツイート・ボタンでつぶやいて下さいね。
(『俳壇』2017年6月号(本阿弥書店)初出)
追記 ツイート・ボタンでつぶやくとハッシュタグがついて、こちらでまとめて読めます。
ラベル:
ロボットが俳句を詠む
2017年5月2日火曜日
覆へるともの巻 評釈
4月5日に亡くなった大岡信氏を偲び、脇起こしで連句を巻いた。今回はいつもの連衆に加え、特に歌人の田中槐さんと柳人のなかはられいこさんに参加して頂いた。以下、評釈を記すにあたり、本連句の句そのものはゴシック、評文中の大岡作品の引用は青字、その他の引用は緑字とし、また敬称略とする。
脇起し追悼七吟歌仙 覆へるともの巻
覆へるとも花にうるほへ石のつら 大岡信
発句は『悲歌と祝祷』(1976年、青土社)巻頭、「祷」という題の行分け詩。
祷
覆へるとも
花にうるほへ
石のつら
その原型は丸谷才一、大岡信、安東次男による『だらだら坂の巻』名残裏花の座「くつがへり花にうるほふ石の面(つら)」とのこと。谷川俊太郎と大岡信の対談『批評の生理』(1978年、思潮社)に谷川による名鑑賞がある。長くなるが引用する。
この詩から僕は、はじめはなんとなく道端でひっくり返っているお地蔵さんというイメージを持って、「石のつら」の「つら」は顔のことだから、お地蔵さんが顔をうつ伏せにして倒れているのかなと思った。だけど考えてみると「つら」は「おもて」とは違う。顔でも頬から顎にかけての横の面の表現だ。これはやはり横ざまに、たぶん丈の低い野草の中に倒れているのではないか、というふうにイメージが変った。
そうして考えてみると、今度はこれは別にお地蔵さんでなくてもいいのじゃないか。「石のつら」というのを人間の顔に重ね合せて考えなくてもいいわけで、もしかするとうつ伏せに倒れた墓石の横の面であるかもしれない。またそこからさらに連想して、これはいかにも日本的な詩のようでいて、しかしギリシャの遺跡で大理石の柱が原色の花のなかに倒れ伏していると読んだっていいのじゃないか。そのどれが正解というのではなくて、そこまで重層的に読めるという気がしてきた。
とにかくこの一篇の主題は、滅亡したものがそのあとも花という現在によってうるおってください、そういう形で過去というものが現在に蘇り得るのだ、というテーマだろう。そういう「石のつら」がなければ花というものもその存在を明らかにしないのだっていう気持がこめられていると思う。つまりこの詩の「花」は『花伝書』の「花」なんかにつながる現在の象徴で、「石」は過去の象徴だと読めるわけね。だからそこにはまた、過去というものが石のように堅固で確乎として存在するものであるのに対して、現在というのは花のようであり、それは早く萎れたり枯れたりするものだという対照もあると思う。この詩の題が「祷(いのり)」であるということのなかには、大岡が自分自身および自分の生み出す作品が未来においては石であることを願うし、現在においては花でありたいと願う、あなた自身の願望がこめられているのじゃないかという気がする。(後略)
大岡信追悼歌仙を巻くにあたり、発句としてはこの詩をおいてないのではないかと思われた。行分け詩を一行にしてよいのか、とか、連句の発句として花の座で始まってよいのか、など躊躇すべき点はないわけではないが、まさに花の盛りに亡くなったわけだし、敢えて頂くこととした。
ひかりをまとふ木々の囀り ゆかり
脇は、そのような「石」が対峙する現在として、「ひかり」と「囀り」を供えた。
上海の地番に春の風抜けて 銀河
第三は、発句と脇の挨拶から離れる役割がある。大岡の詩「延時(イエンシー)さんの上海 中国」(『旅みやげ にしひがし』(集英社、2002年)所収)を引用して、上海の春に転じた。余談ながら、この詩の題材となった、昭和十年に上海で他界した大岡信の祖父は、かなりミステリアスな人物のようである。
摩天楼にて蟹を楽しむ 伸太
引用元にこだわることなく、昨今の上海事情にて付けている。
踊るひとつぎつぎふえる月あかり 槐
摩天楼のふもとでは昔ながらの盆踊りが今も続けられていて、月あかりに照らされている。
孫三たりとのメイル爽やか 令
前句「つぎつぎふえる」から導かれているが、これは大岡信が2004年宮内庁歌会始の召人として詠んだ「いとけなき日のマドンナの幸(さっ)ちゃんも孫三たりとぞeメイルくる」を引用している。
ウ 校庭に朝顔からみつく木馬 媚庵
前句「孫三たり」から導かれているが、夏休みであろうか。遊具に朝顔がからみついている。
たがひちがひに灯すランタン れいこ
校庭にひと気がない時期、じつはキャンプに行っていたようである。
森といふ夢の過剰を鎮めをり り
森はなんとも怖ろしい。大岡信の「青春」(『記憶と現在』(書肆ユリイカ、1956年)所収)の一節「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢を奪った」を引用している。
窓に記憶を残しさよなら 河
同じく『記憶と現在』から「二十歳」の一節「すでに整然たる磁場はくずれた。私は沙上をさまよい歩く。私は窓に記憶のノートを撒き散らす。落日。森の長い影が私の内部に伸びている。私は夜に入ってゆく。」を引用して付けている。前句から恋に転じる可能性もあったが、未遂に終わっている。
山男マッキンリーから帰らざる 太
前句の「さよなら」を死別と捉え付けている。ところで、大岡信は若くして山男の友人を膵臓癌で喪い、「薤露歌」という詩を残している(『悲歌と祝祷』所収)。一部を紹介する。
浪華の市長の弔電なんか
もらつたつてなんになる
活力と善意のかたまり
陽気な笑ひ スキーの陽やけ
脳髄に中国近代史をつめこんで
それを陳(なら)べてみせるまもなく
きみはすべった 直滑降の非時(ときじく)の坂を
凍てし月より石を拾はむ 槐
厳寒の雪山のイメージを受け、一風変わった冬の月の座としている。アポロ計画の時代にも思いを馳せているのだろうか。
最大の平面の夢受胎すと 令
クレーターだらけの月面のイメージからの推移だろう。大岡信は『ユリイカ』に連載していた「文学的断章」の記事「ある詩のためのノート」(1972年7月号)で、「木霊と鏡」の推敲過程を公開している。その中の以下の一節から引用している。原詩の命令形に対し、しかと受け止めた体となっている。
地上のものらを地上の色に着色するため降りそそぐ
宇宙の雨のささやき
「受胎せよ 受胎せよ
無言を受胎せよ
最大の平面の夢
最小の運動の脈
どもる会話の泉
謎への信頼
抑揚ある造物主の呼吸(いき)
それらを脳の水盤に
受胎せよ
今朝のうたこそ生の賜物 庵
前句の「受胎す」に付けている。明示的ではないが、「今朝のうた」は朝日新聞朝刊に連載されていた『折々のうた』へのオマージュとも考えられる。
付喪神つれて質屋の旗の下 こ
生命の謳歌である前句に対し、飄逸にも無生物を質に入れ、しかも付喪神という得体の知れないものまで詠み込んでいる。ここまであまり笑う場面もなく進行してきたが、みごとに雰囲気を変えている。
泡立つてゐる発語本能 り
付喪神という得体の知れないものにも言語コミュニケーションが存在することを仮定して付けている。「発語本能の泡立ち」は大岡信の初期の評論『現代詩詩論』の中で以下のように使われている。
(前略)
激しく生きるということはまず第一に、詩人が自らの内部に強烈な発語本能の泡立ちを感じとるということだ。しかし、発語本能というものは、常に何らかの形で外部から触発されて働くものである。だから、すべての前提条件として、まず彼にはげしい抵抗感を感じさせるものがなければならぬ。しかし現実には、われわれの周囲ではそうした抵抗感を持つものが、しだいに一種垂れさがったような印象を与えるものに変わっているようだ。これを沈滞とよぼうと、相対的安定期とよぼうと、または混乱とよぼうと、現実の事実としては社会全体が病んでいるとしか言いようがない。この時詩人が思想的にいかに健康であっても、彼の感性はこの病毒の影響を最も直接的に蒙るであろう。焦ってこれを拒もうとすればするほど、詩は観念的な独白、あるいはヒステリックな叫びに陥る危険に直面せねばならなくなる。つまり、感性の受ける傷は彼の批評精神をそこねるのだ。従って、おのれの詩人としての宿命を頑なに信じて書ける詩人だけが、たしかな骨組みを持った詩、つまり詩としての普遍性をそなえた詩を書きうるという、真実だが、今日では些か皮肉な現象が起こってくるのだ。今日詩を書くということは実に難しいことである。
(後略)
掃除機に吸ひ込まれゆく花の闇 河
『ぬばたまの夜、天の掃除機せまつてくる』(岩波書店、1987年)に拠っている。吸い込まれるのは「発語本能の泡立ち」なのか「花の闇」なのか。いかんともし難いハイパワーが迫る。
いそぎんちやくのひと日は過ぎぬ 太
そんなことはなかったかのように、磯巾着の平和な生態が描かれる。なかなかな転じである。
ナオ 春の野に燃やす記憶と現在と 槐
詩集『記憶と現在』に拠っているわけだが、抑えがたい感情の高まりを感じる。
新聞社にて訳す英文 令
そんな学生時代を封印して就職したのだろうか。伝記的な事実としては、大岡信は読売新聞社に就職し外信部に在籍した時期がある。
バンカラの一高生が辞書を食ふ 庵
これもまた伝記的な事実として、大岡信は旧制一高を卒業している。その事実と、中学あたりでいまだに語り継がれる「昔の人は辞書の単語を覚えるたびにそのページを食べるくらいの覚悟で勉強していたんだ」というなかば法螺話を組み合わせている。
おおそれみよと揺れる桟橋 こ
外国語つながりで、「地名論」(『大岡信詩集』(思潮社、1968年)所収)を引用している。言葉遊びの楽しさに満ちたこの詩は、部分的に紹介しても面白さが伝わらない。
地名論
水道管はうたえよ
御茶の水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
おお 見知らぬ土地を限りなく
数えあげることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか
燃えあがるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混ったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り
海鳥は下から上にまぶた閉ぢ り
前句「桟橋」から導かれている。「少年」(『悲歌と祝祷』所収)に次の一節がある。
さうさ
海鳥に
寝呆けまなこのやつなんか
一羽もゐないぜ
どうでもいい話だが、調べてみると鳥は人間とまぶたの構造が異なり、下から上に閉じるらしい。大岡の勇気を鼓舞する詩句を俳句の客観写生の方法で捉えなおすと、こんなことになってしまう。
雪の純白くぐる恍惚 河
前句「海鳥」から導かれている。ホワイトアウトする眩暈を感じる。
食卓に置かれ真珠のネックレス 太
前句「純白」から導かれている。物質感がある。
汝が泣くときの宝石のこゑ 槐
岡倉天心とインド人女性との往復書簡集『宝石の声なる人に―プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙』(大岡玲との共訳、平凡社、1997年)に拠る。前句「真珠」と直接的に障る気もするが、こちらは宝石ではなく「こゑ」だと捉え、そのまま頂くことにした。このあたり、初折裏で機会を逸したままの恋の座の呼びかけとなっている。
重信と苑子に夜の訪問者 令
大岡信と高柳重信の親交は「船焼き捨てし船長へ 追悼」(『地上楽園の午後』(花神社、1992年)所収)に詳しい。1956年に『短歌研究』誌上で塚本邦雄と「前衛短歌論争」を行い、そのときに塚本の俳壇における盟友と目されていた重信と出会い意気投合したということらしい。この連句の発句とした「祷」が重信の多行俳句をなぞらえた短詩であったことを思い出しておこう。
浪漫渡世遠く秋立つ 庵
夜の訪問者は大岡信だけではなく、高柳邸には加藤郁乎、佐佐木幸綱などの大酒飲みが訪れたらしい。そのような古き良き交流を「浪漫渡世」と呼んだものだろう。
ファザーネン通りをおほき月のぼる こ
大岡信の仕事は世界規模の連詩に及ぶ。アルトマン、パスティオール、谷川俊太郎との共著『ファザーネン通りの縄ばしご--ベルリン連詩』(岩波書店、1989年)を踏まえているが、前句の「遠く」がじつに効いている。
途絶えがちなる夜寒の電波 り
月から微弱な指令が人類に送られているイメージ。大岡を離れ『二千一年宇宙の旅』が混信している。
ナウ お辞儀して太古の汗を拭かずゐる 河
『悲歌と祝祷』には加藤楸邨の句を五句、そのまま詩に組み込む試みが行われている。楸邨の句につけられた傍丸は、ネット上では再現できないので行の終わりに一字おいて○とする。
和唱達谷先生五句
暗に湧き木の芽に終る怒濤光 ○
鳥は季節風の腕木を踏み渡り
ものいはぬ瞳は海をくぐつて近づく
それは水晶の腰を緊めにゆく一片の詩
人の思ひに湧いて光の爆発に終る青
*
つひに自然の解説者には
堕ちなかつた誇りもて
自然に挨拶しつつある男あり
ふぐり垂れ臀光らしめ夏野打つ ○
受胎といふは 機構か 波か
*
蟹の視野いつさい氷る青ならむ ○
しかし発生しつづける色の酸素
匂ふ小動物にはつぎつぎに新しい名を与へよ
距離をふくんだ名前を
寒卵の輪でやはらかく緊めて
*
水音や更けてはたらく月の髪 ○
地下を感じる骨をもち
塩をつかんで台所にたつ
謎の物体が目の奥を歩み去るとき
好(す)キ心の車馬はほのかに溢れる
*
石を打つ光の消えぬうちに
はてしないものに橋梁をかける
掌(て)から発するほかない旅の
流星に犯されてふくらむ路程
喇嘛僧と隣りて眠るゴビの露 ○
* 達谷先生--達谷山房主 加藤楸邨氏
銀河の句はこの第二連に拠っている。付け筋としては前句の地理的に対し、本句では時間的な遠方としている。
アンモナイトの生れて大陸 太
時間的にさらに遡っている。
あをいろの点描で描く友のかほ 槐
まったく転じている。槐によれば大岡の親友でもあった画家サム・フランシスの青をイメージしたという。
うたげあたたか孤心を生きて 令
評論集『うたげと孤心』(集英社、1978年)に拠っている。友とのうたげの一方で、孤心を生きるのだという。
朝といふ朝の窓辺にひらく花 庵
そんな孤心に対し、これでもかとばかりに花が開き語りかける。「窓辺」は世界との接点である。
蝶うつろへる折々のうた こ
「朝といふ朝」といえば、朝日新聞朝刊に連載された大河的アンソロジー『折々のうた』だろう。ジャンルと時代を超えて「うた」を渉猟した故人のすがたと蝶が重なっている。そしてまた、発句に詠まれた「石のつら」の意味を思う。こうして人類の文化が循環している。
脇起し追悼七吟歌仙 覆へるともの巻
覆へるとも花にうるほへ石のつら 大岡信
発句は『悲歌と祝祷』(1976年、青土社)巻頭、「祷」という題の行分け詩。
祷
覆へるとも
花にうるほへ
石のつら
その原型は丸谷才一、大岡信、安東次男による『だらだら坂の巻』名残裏花の座「くつがへり花にうるほふ石の面(つら)」とのこと。谷川俊太郎と大岡信の対談『批評の生理』(1978年、思潮社)に谷川による名鑑賞がある。長くなるが引用する。
この詩から僕は、はじめはなんとなく道端でひっくり返っているお地蔵さんというイメージを持って、「石のつら」の「つら」は顔のことだから、お地蔵さんが顔をうつ伏せにして倒れているのかなと思った。だけど考えてみると「つら」は「おもて」とは違う。顔でも頬から顎にかけての横の面の表現だ。これはやはり横ざまに、たぶん丈の低い野草の中に倒れているのではないか、というふうにイメージが変った。
そうして考えてみると、今度はこれは別にお地蔵さんでなくてもいいのじゃないか。「石のつら」というのを人間の顔に重ね合せて考えなくてもいいわけで、もしかするとうつ伏せに倒れた墓石の横の面であるかもしれない。またそこからさらに連想して、これはいかにも日本的な詩のようでいて、しかしギリシャの遺跡で大理石の柱が原色の花のなかに倒れ伏していると読んだっていいのじゃないか。そのどれが正解というのではなくて、そこまで重層的に読めるという気がしてきた。
とにかくこの一篇の主題は、滅亡したものがそのあとも花という現在によってうるおってください、そういう形で過去というものが現在に蘇り得るのだ、というテーマだろう。そういう「石のつら」がなければ花というものもその存在を明らかにしないのだっていう気持がこめられていると思う。つまりこの詩の「花」は『花伝書』の「花」なんかにつながる現在の象徴で、「石」は過去の象徴だと読めるわけね。だからそこにはまた、過去というものが石のように堅固で確乎として存在するものであるのに対して、現在というのは花のようであり、それは早く萎れたり枯れたりするものだという対照もあると思う。この詩の題が「祷(いのり)」であるということのなかには、大岡が自分自身および自分の生み出す作品が未来においては石であることを願うし、現在においては花でありたいと願う、あなた自身の願望がこめられているのじゃないかという気がする。(後略)
大岡信追悼歌仙を巻くにあたり、発句としてはこの詩をおいてないのではないかと思われた。行分け詩を一行にしてよいのか、とか、連句の発句として花の座で始まってよいのか、など躊躇すべき点はないわけではないが、まさに花の盛りに亡くなったわけだし、敢えて頂くこととした。
ひかりをまとふ木々の囀り ゆかり
脇は、そのような「石」が対峙する現在として、「ひかり」と「囀り」を供えた。
上海の地番に春の風抜けて 銀河
第三は、発句と脇の挨拶から離れる役割がある。大岡の詩「延時(イエンシー)さんの上海 中国」(『旅みやげ にしひがし』(集英社、2002年)所収)を引用して、上海の春に転じた。余談ながら、この詩の題材となった、昭和十年に上海で他界した大岡信の祖父は、かなりミステリアスな人物のようである。
摩天楼にて蟹を楽しむ 伸太
引用元にこだわることなく、昨今の上海事情にて付けている。
踊るひとつぎつぎふえる月あかり 槐
摩天楼のふもとでは昔ながらの盆踊りが今も続けられていて、月あかりに照らされている。
孫三たりとのメイル爽やか 令
前句「つぎつぎふえる」から導かれているが、これは大岡信が2004年宮内庁歌会始の召人として詠んだ「いとけなき日のマドンナの幸(さっ)ちゃんも孫三たりとぞeメイルくる」を引用している。
ウ 校庭に朝顔からみつく木馬 媚庵
前句「孫三たり」から導かれているが、夏休みであろうか。遊具に朝顔がからみついている。
たがひちがひに灯すランタン れいこ
校庭にひと気がない時期、じつはキャンプに行っていたようである。
森といふ夢の過剰を鎮めをり り
森はなんとも怖ろしい。大岡信の「青春」(『記憶と現在』(書肆ユリイカ、1956年)所収)の一節「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢を奪った」を引用している。
窓に記憶を残しさよなら 河
同じく『記憶と現在』から「二十歳」の一節「すでに整然たる磁場はくずれた。私は沙上をさまよい歩く。私は窓に記憶のノートを撒き散らす。落日。森の長い影が私の内部に伸びている。私は夜に入ってゆく。」を引用して付けている。前句から恋に転じる可能性もあったが、未遂に終わっている。
山男マッキンリーから帰らざる 太
前句の「さよなら」を死別と捉え付けている。ところで、大岡信は若くして山男の友人を膵臓癌で喪い、「薤露歌」という詩を残している(『悲歌と祝祷』所収)。一部を紹介する。
浪華の市長の弔電なんか
もらつたつてなんになる
活力と善意のかたまり
陽気な笑ひ スキーの陽やけ
脳髄に中国近代史をつめこんで
それを陳(なら)べてみせるまもなく
きみはすべった 直滑降の非時(ときじく)の坂を
凍てし月より石を拾はむ 槐
厳寒の雪山のイメージを受け、一風変わった冬の月の座としている。アポロ計画の時代にも思いを馳せているのだろうか。
最大の平面の夢受胎すと 令
クレーターだらけの月面のイメージからの推移だろう。大岡信は『ユリイカ』に連載していた「文学的断章」の記事「ある詩のためのノート」(1972年7月号)で、「木霊と鏡」の推敲過程を公開している。その中の以下の一節から引用している。原詩の命令形に対し、しかと受け止めた体となっている。
地上のものらを地上の色に着色するため降りそそぐ
宇宙の雨のささやき
「受胎せよ 受胎せよ
無言を受胎せよ
最大の平面の夢
最小の運動の脈
どもる会話の泉
謎への信頼
抑揚ある造物主の呼吸(いき)
それらを脳の水盤に
受胎せよ
今朝のうたこそ生の賜物 庵
前句の「受胎す」に付けている。明示的ではないが、「今朝のうた」は朝日新聞朝刊に連載されていた『折々のうた』へのオマージュとも考えられる。
付喪神つれて質屋の旗の下 こ
生命の謳歌である前句に対し、飄逸にも無生物を質に入れ、しかも付喪神という得体の知れないものまで詠み込んでいる。ここまであまり笑う場面もなく進行してきたが、みごとに雰囲気を変えている。
泡立つてゐる発語本能 り
付喪神という得体の知れないものにも言語コミュニケーションが存在することを仮定して付けている。「発語本能の泡立ち」は大岡信の初期の評論『現代詩詩論』の中で以下のように使われている。
(前略)
激しく生きるということはまず第一に、詩人が自らの内部に強烈な発語本能の泡立ちを感じとるということだ。しかし、発語本能というものは、常に何らかの形で外部から触発されて働くものである。だから、すべての前提条件として、まず彼にはげしい抵抗感を感じさせるものがなければならぬ。しかし現実には、われわれの周囲ではそうした抵抗感を持つものが、しだいに一種垂れさがったような印象を与えるものに変わっているようだ。これを沈滞とよぼうと、相対的安定期とよぼうと、または混乱とよぼうと、現実の事実としては社会全体が病んでいるとしか言いようがない。この時詩人が思想的にいかに健康であっても、彼の感性はこの病毒の影響を最も直接的に蒙るであろう。焦ってこれを拒もうとすればするほど、詩は観念的な独白、あるいはヒステリックな叫びに陥る危険に直面せねばならなくなる。つまり、感性の受ける傷は彼の批評精神をそこねるのだ。従って、おのれの詩人としての宿命を頑なに信じて書ける詩人だけが、たしかな骨組みを持った詩、つまり詩としての普遍性をそなえた詩を書きうるという、真実だが、今日では些か皮肉な現象が起こってくるのだ。今日詩を書くということは実に難しいことである。
(後略)
掃除機に吸ひ込まれゆく花の闇 河
『ぬばたまの夜、天の掃除機せまつてくる』(岩波書店、1987年)に拠っている。吸い込まれるのは「発語本能の泡立ち」なのか「花の闇」なのか。いかんともし難いハイパワーが迫る。
いそぎんちやくのひと日は過ぎぬ 太
そんなことはなかったかのように、磯巾着の平和な生態が描かれる。なかなかな転じである。
ナオ 春の野に燃やす記憶と現在と 槐
詩集『記憶と現在』に拠っているわけだが、抑えがたい感情の高まりを感じる。
新聞社にて訳す英文 令
そんな学生時代を封印して就職したのだろうか。伝記的な事実としては、大岡信は読売新聞社に就職し外信部に在籍した時期がある。
バンカラの一高生が辞書を食ふ 庵
これもまた伝記的な事実として、大岡信は旧制一高を卒業している。その事実と、中学あたりでいまだに語り継がれる「昔の人は辞書の単語を覚えるたびにそのページを食べるくらいの覚悟で勉強していたんだ」というなかば法螺話を組み合わせている。
おおそれみよと揺れる桟橋 こ
外国語つながりで、「地名論」(『大岡信詩集』(思潮社、1968年)所収)を引用している。言葉遊びの楽しさに満ちたこの詩は、部分的に紹介しても面白さが伝わらない。
地名論
水道管はうたえよ
御茶の水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
おお 見知らぬ土地を限りなく
数えあげることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか
燃えあがるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混ったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り
海鳥は下から上にまぶた閉ぢ り
前句「桟橋」から導かれている。「少年」(『悲歌と祝祷』所収)に次の一節がある。
さうさ
海鳥に
寝呆けまなこのやつなんか
一羽もゐないぜ
どうでもいい話だが、調べてみると鳥は人間とまぶたの構造が異なり、下から上に閉じるらしい。大岡の勇気を鼓舞する詩句を俳句の客観写生の方法で捉えなおすと、こんなことになってしまう。
雪の純白くぐる恍惚 河
前句「海鳥」から導かれている。ホワイトアウトする眩暈を感じる。
食卓に置かれ真珠のネックレス 太
前句「純白」から導かれている。物質感がある。
汝が泣くときの宝石のこゑ 槐
岡倉天心とインド人女性との往復書簡集『宝石の声なる人に―プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙』(大岡玲との共訳、平凡社、1997年)に拠る。前句「真珠」と直接的に障る気もするが、こちらは宝石ではなく「こゑ」だと捉え、そのまま頂くことにした。このあたり、初折裏で機会を逸したままの恋の座の呼びかけとなっている。
重信と苑子に夜の訪問者 令
大岡信と高柳重信の親交は「船焼き捨てし船長へ 追悼」(『地上楽園の午後』(花神社、1992年)所収)に詳しい。1956年に『短歌研究』誌上で塚本邦雄と「前衛短歌論争」を行い、そのときに塚本の俳壇における盟友と目されていた重信と出会い意気投合したということらしい。この連句の発句とした「祷」が重信の多行俳句をなぞらえた短詩であったことを思い出しておこう。
浪漫渡世遠く秋立つ 庵
夜の訪問者は大岡信だけではなく、高柳邸には加藤郁乎、佐佐木幸綱などの大酒飲みが訪れたらしい。そのような古き良き交流を「浪漫渡世」と呼んだものだろう。
ファザーネン通りをおほき月のぼる こ
大岡信の仕事は世界規模の連詩に及ぶ。アルトマン、パスティオール、谷川俊太郎との共著『ファザーネン通りの縄ばしご--ベルリン連詩』(岩波書店、1989年)を踏まえているが、前句の「遠く」がじつに効いている。
途絶えがちなる夜寒の電波 り
月から微弱な指令が人類に送られているイメージ。大岡を離れ『二千一年宇宙の旅』が混信している。
ナウ お辞儀して太古の汗を拭かずゐる 河
『悲歌と祝祷』には加藤楸邨の句を五句、そのまま詩に組み込む試みが行われている。楸邨の句につけられた傍丸は、ネット上では再現できないので行の終わりに一字おいて○とする。
和唱達谷先生五句
暗に湧き木の芽に終る怒濤光 ○
鳥は季節風の腕木を踏み渡り
ものいはぬ瞳は海をくぐつて近づく
それは水晶の腰を緊めにゆく一片の詩
人の思ひに湧いて光の爆発に終る青
*
つひに自然の解説者には
堕ちなかつた誇りもて
自然に挨拶しつつある男あり
ふぐり垂れ臀光らしめ夏野打つ ○
受胎といふは 機構か 波か
*
蟹の視野いつさい氷る青ならむ ○
しかし発生しつづける色の酸素
匂ふ小動物にはつぎつぎに新しい名を与へよ
距離をふくんだ名前を
寒卵の輪でやはらかく緊めて
*
水音や更けてはたらく月の髪 ○
地下を感じる骨をもち
塩をつかんで台所にたつ
謎の物体が目の奥を歩み去るとき
好(す)キ心の車馬はほのかに溢れる
*
石を打つ光の消えぬうちに
はてしないものに橋梁をかける
掌(て)から発するほかない旅の
流星に犯されてふくらむ路程
喇嘛僧と隣りて眠るゴビの露 ○
* 達谷先生--達谷山房主 加藤楸邨氏
銀河の句はこの第二連に拠っている。付け筋としては前句の地理的に対し、本句では時間的な遠方としている。
アンモナイトの生れて大陸 太
時間的にさらに遡っている。
あをいろの点描で描く友のかほ 槐
まったく転じている。槐によれば大岡の親友でもあった画家サム・フランシスの青をイメージしたという。
うたげあたたか孤心を生きて 令
評論集『うたげと孤心』(集英社、1978年)に拠っている。友とのうたげの一方で、孤心を生きるのだという。
朝といふ朝の窓辺にひらく花 庵
そんな孤心に対し、これでもかとばかりに花が開き語りかける。「窓辺」は世界との接点である。
蝶うつろへる折々のうた こ
「朝といふ朝」といえば、朝日新聞朝刊に連載された大河的アンソロジー『折々のうた』だろう。ジャンルと時代を超えて「うた」を渉猟した故人のすがたと蝶が重なっている。そしてまた、発句に詠まれた「石のつら」の意味を思う。こうして人類の文化が循環している。
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