2016年8月11日木曜日

『鏡』二十号を読む

  化身かもしれぬ沓音おち椿     八田夕刈
 東大寺二月堂修二会の連作である。「沓音」という表記であれば、掲句は「水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉」(「こもりの僧」とする異稿もある)を踏まえているのだろう。伝統行事ではあるが、まさに芭蕉が心を動かされたであろう沓の音を耳にして「化身かもしれぬ」と捉えたに違いない。「おち椿」は化身が実在した痕跡として機能している。

  内陣券あり〼路地に春疾風     八田夕刈
 連作の中で対象世界だけを切り取って描くのではなく、あえて対象世界を外側から捉えた句を混ぜて、冷笑的な一面も連作に取り込んだのは山口誓子であった。誓子は「天守眺望」という妙なる連作に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を混ぜ込んだり、「枯園」という妙なる連作に「部屋の鍵ズボンに匿れ枯園に」を混ぜ込んだりした。八田夕刈の掲句も宗教的な荒々しい伝統行事の世界から距離を置いた句を混ぜ込むことにより、連作全体に重層的な味わいを付け加えている。

  縞馬の縞は横縞夏近し       大上朝美
 楽しい句である。地面を基準とすれば縦縞であるが、人間の着衣と同様に背骨を基準に考えれば、縦に見えていても横縞以外の何ものでもない。そんな他愛もないことを考える気分が、いかにも「夏近し」である。

  呪文かなウワナベコナベホシハジロ 羽田野 令
 タイトルは『黒髪山残夢』。地図で見ると関西本線を挟んで東に黒髪山があり、西にウワナベ古墳、コナベ古墳がある。それぞれ池に囲まれてカモ目カモ科ハジロ属の水鳥ホシハジロが羽を休めているのだろう。これらの名前をつなげると確かに呪文みたいで妙に可笑しい。

  花房や肺を出てゆくきれいな血   佐藤文香
 「花房」とあるが、実際にこの句で詠まれているのは心臓のイメージだろう。全身から戻ってきた静脈血は、上下大静脈から右心房に流れ込み、右心房の血液は右心室から肺動脈を通って肺で酸素を取り込んだ後、左右の肺から各2 本ずつの肺静脈を経て左心房に入り、僧帽弁を通過して左心室に送られ、左心室の強い収縮力を受けて大動脈から全身に送り出される。心房→花房というちょっとした字句の入れ替えにより、俳句としての生命を獲得している。

  きさらぎのせせらぎのある光かな  越智友亮
 「きさらぎ」という言葉は「き」と「ら」があるだけにキラキラ感があって、音韻的な配慮を強いて人をある方向に向かわせる。

  はるのくれ鳥を言の葉として木は  越智友亮
 ひとつの木がびっしりと百千鳥状態になって、文字通り木が鳴いている感じになることがある。それは生態系の中で木にとっても悦びの謳歌であるに違いない。述部を割愛しているので、人語を超越した木の思いがあるのだろう。

  車窓よりあふれ出したるしやぼん玉 東 直子
 前句「春潮や朝一番の列車過ぐ」を手がかりにすれば「車窓」は列車の窓ということになるが、昨今子どもにそんな非常識なふるまいを許す親がいるのだろうか、などとつい余計なことを考えてしまう。そしてだからこそこの句の世界はよいのだ。

  とのぐもり無音の魚の運ばるる   東 直子
 「とのぐもり」は空一面に雲がたなびいてくもること。「無音の魚」がいささか不吉であるが、鰯雲でも鯖雲でもなくなった雲の状態だろうか。もちろん、上五で切れるという読みもあり得る。例えば魚料理。誰かが言った。魚料理とは魚の死体を食べることだと…。

  魚へんに何をつけても生きのびる  東 直子
 ところで魚料理はあまり漢字で書かないような気がする。マグロとかカツオとか…。これを鮪とか鰹とか書くとてきめんに泳ぎ出すのだ。

  桜島火を噴く饂飩茹であがる    佐川盟子
 シンクロニシティ俳句である。「レジスター開きて遠き雪崩かな 山田露結」とかこのジャンルは探せばいろいろあるような気がするが、そもそも二物衝撃とはシンクロニシティのことではなかったか。

  ほたるいか海の底へと地はつづき  佐川盟子
 「ブラタモリ」などのせいで地形への感心がにわかに高まっているのだが、この句、「ほたるいか」が地球のなりたちとかの話に出てくる古代生物の末裔のようで、じつにいい味を出している。

  産み月の靴すり減らす春日傘    佐川盟子
 臨月ともなれば安全のためにぺったんこな靴を履くのだろうが、それをさらにすり減らす妊婦の重量感がなんともよい。「春日傘」に、息を切らした感じが表れている。

  肉色のくれよんであゝ馬のかほ   村井康司
 一読「あゝ」の恍惚感がすばらしい。「肉色」の字面が語義を超えて官能的である。

  雪間より影を剥がして鴉発つ    笹木くろえ
 一点の黒いかたまりだったものが飛ぶ鴉とその影に分離するさまを詠んでいる。まるでカメラのCMのようで、現実以上の高細密度を感じる。

  如月の銀のドレスに走る皺     笹木くろえ
 越智友亮の句のところできさらぎのキラキラ感について触れたが、本句の濁音のたたみ掛け方にも味がある。ドレスに走る皺の下の肉のたるみまで見えるようである。

  振り向くなはだれ野が背に付いてくる 笹木くろえ
 なにかの神話のような「振り向くな」であるが、それによって引き起こされる災厄が「はだれ野が背に付いてくる」とは、べとべとでぐじょぐじょで妙に可笑しい。

  これが朴と指されし老樹芽吹きをり 谷 雅子
 葉が茂ってみれば一目瞭然の朴ではあるが、落葉樹なので芽吹きの頃には元々知ってなければ分からない。指さしてくれた人には「ほお」と答えたのだろうか。

  草に沖海に沖あり鷹渡る      寺澤一雄
 思い出すのは「恋人よ草の沖には草の鮫 小林恭二」だ。かれこれ三十年くらい前の句だろうか。青春まっただ中のような恭二句への時を超えた返句なのかも知れない一雄句からは、年齢相応の達観が感じられる。

  生者死者喪中はがきに名を書かれ  寺澤一雄
 言われてみればその通りである。この身も蓋もなさが一雄節である。

  寒垢離の人照明に当たりけり    寺澤一雄
 観光客向けにライトアップされているのだろうか。そうでないとしても、現代文明の中での宗教行事は時として妙なことになるのだろう。

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