2016年8月12日金曜日

感覚が冴えわたる暴れどころのできちゃった俳句

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第三章は「触れで汚れて」。句集全体の中での暴れどころなのか、感覚にまかせてできちゃったような句が目を引く。

  冬眠のベッドも椅子も大きくて
 人間とて冬場は活動力が低下し変温動物のように冬眠したくなる訳だが、それを、からだが小さくなるようだという感覚で捉えることは、あまりないのではないか。
  
  死んでやる口中あまき根深葱
 私に句集をお送り下さったくらいだから、まだ生きているのだろう。すると根深葱にいのちを救われたのか。上五の「死んでやる」という啖呵が楽しい。
 
  ふたりして煮凝揺するノンフィクション
 煮凝の凝固のぐあいを確かめるために、夫婦とか母娘とかでほんとうに揺すったのだろう。で、まるでなにかの小説の登場人物みたいな感じに襲われたその感じまでを句にしようとしたら、下五がこんなになっちゃったに違いない。
 
  御降の眼にやはらかく放尿す
 思い出すのは「さを姫の春立ちながら尿(しと)をして 宗鑑」である。掲句の場合「放尿す」の前に切れがあるように読むのが順当ではあろうが、御降と放尿を同一視したくもなるのは、宗鑑の句があるからだろう。ちなみに宗鑑の句は「霞の衣すそはぬれけり」への前句付けである。

  指先に触れで汚れて春の雪
 触れなくても汚れてしまうというのがいかにも春の雪である。打ち消しの接続助詞「で」でしかも「触れ」なので「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 与謝野晶子」をも呼び込み、どこか妄想性愛の趣もある。

  ふしあはせの馬刀貝だけを突くらしい
 馬刀貝というのは、穴に塩を入れて出てきたところを採るらしい。塩分濃度に敏感であり、急激な変化があると巣穴から飛び出す性質を利用した漁法なのだそうだ。掲句、それ自体では意味不明ながら、馬刀貝のそんな習性や特異な外見を知ると「ふしあはせ」とか「突く」という措辞がすごく効いているような気がしてくる。という読解のプロセスのために周到に用意されているのが、句尾の「らしい」なのである。

  ばくげきのぱふすりーぶがぱとひらく
 「ぱふすりーぶ」は『赤毛のアン』では「提灯袖」と訳された、肩のふくらみ。爆撃機が爆弾投下する際に、胴体下部を機体の曲面のままに開くあの感じと、パフスリーブは確かに妄想の彼方で通い合う。それは意味の世界で通い合っているわけではないので、こうなったらもう、全体をひらがな表記するしかないのだ。

  産道に水掻たたむ虹のあと
 哺乳類は受胎から出産までの間に動物の進化の歴史を繰り返すと言われる。哺乳類に進化する前は両生類で水掻があるのだろう。雨上がりの虹のあとあたりで、乾いて哺乳類になるのだろうか。「虹のあと」の「あと」に、絶妙な感覚の冴えを感じる。

  クローンの父いろなき風をひた走る
  どの蓋も合はなくて母だと名告る
 先に「螺子釘やはじめヒト科のちちとはは」について触れたが、父と母はここでも誰のでもある父と母として絶妙にやらかす。父は家庭的な実態としての感触を消して仕事に奔走し、母は間抜けながら強烈な実態を主張する。いかにも父であり、母である。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿