前号では「ロボットは俳句を学べるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を学べたとして、ではロボットは何を目指すのか。個性とは何か。このあたり、人間の実作者にとっても悩ましい。
ふつう人がロボットに抱くイメージは、正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない…などだろう。で、工業用ロボットが生産した製品の仕上がりについては、安定的に高品質、個性がない、…といったイメージではないかと思う。
さて、身近にこんな俳人はいらっしゃらないか。目に映るものを片っ端から客観写生すべく日頃から凄まじい努力をし、「多作多捨」とか「俳句スポーツ説」とかを信奉し精進している…。頭が下がることではあるが、これってロボットに抱いていたイメージの「正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない、…」を人力でやろうとしているだけで、目標が俳句そのものからすり替わり、単に「私はロボットになりたい」と言っているだけではないのだろうか。そのような努力とともに生産される句がもし「安定的に高品質、個性がない、…」だったとしたら空しい。克己的な作句態度と、できた句が面白いかはまったく別のことだ。「多作多捨」も「俳句スポーツ説」も波多野爽波が唱えたことだが、爽波自身の句は飄逸にして今も輝いている。
作句態度としてのロボットの話は金輪際捨て置くとして、やはり俳句なのだから、ロボットだって個性的な俳句を作りたい。では人間にとって個性とはなにか。ある作風が人から個性だと認められたとき、それを伸ばそうとすることは自己模倣ではないのか。自己模倣とは自己の作句アルゴリズムをパターン化して再生可能とすることではないのか。それは、まさに自分をロボット化することではないのか。
山口誓子最晩年の句集『大洋』から何句か引く。
大雪原人の住む灯の見当らず 誓子
揺れてゐる壁爐の火には形無し
まだ水田美濃は水田を憚らず
獅子舞の鬼紅舌を隠さざる
船は見えざれど烏賊火は前進す
新蕎麦を刻む人間業ならず
鯉幟身をくねらせて進まざる
いかがだろう。この動詞未然形への執着、不在への執着。最晩年の山口誓子は、もはやロボットのようにして個性を繰り出していたのではないか。
(『俳壇』2016年9月号(本阿弥書店)初出)
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