橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅢ。
芹の水言葉となれば濁るなり
最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。
足音がしておのずから草芽ぐむ
この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。
さくらさくら少年少女より聰し
もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。3/16放送の毎日放送『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。
入口も出口もなくて春の昼
またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。
粽ほどきつつ枕詞のこと
十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。
ラテン語の風格にして夏蜜柑
これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。
水ごころ無くて落葉を掃きいたり
閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。
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