すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。
子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。
去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子
この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。
クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜 浦川聡子
あるいは「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。
海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ 田島健一
あるいは前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。
特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成していると感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。
であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。
風花にかざす恋するふたりかな はいだんくん
(『俳壇』2017年4月号(本阿弥書店)初出)
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