次の章は「危うきは」。これまでの二章ほど章のタイトルは明示的でない。字足らず、字余り、宗教語、会話体、命令形、擬態語などを技のデパートのように繰り出してくるが、無意味の散乱ではなく、生の孤愁とでもいうべきものの表現に総体的に向かっている。また伝統的な連句とは違うマナーで前後の句を何かしら関連を持たせて配列しているようである。章の最初の四句を見てみよう。
樹下春光内耳たどれば地中海 掌
パピルスの文字は眠りぬ青葉騒
聖五月そっと言の葉屋上に
繭透けてうすむらさきのさざなみ
地中海→パピルス→言の葉、と連想のパスが渡され、繭のなかのいまだ発語しない(字足らずな)生命体に及ぶ。
続いて章の最後の五句を、もう少しつぶさに見てみよう。
銀漢の星のひとつを旅という
宇宙全体としては摂理であるが、そのひとつひとつのありようは多様で旅というべきドラマが繰り広げられている。
銀漢にわれは牛飼う漢(おとこ)かな
通常の連句なら同語で付けることはしないものだが、連句ではないのでそこは指摘すべき点ではない。ひとつの旅として牽牛織女の故事を持ち出している。沢田研二「危険なふたり」の歌詞、「今日までふたりは恋という名の旅をしていたと言えるあなたは年上の人」(安井かずみ作詞)を思い出したりもする。
白帝の罪咎われを教唆せよ
前句とは「われ」で同語反復している。「白帝」は陰陽五行説に基づいた擬人化による秋の異名であるが、擬人化できるものには罪も咎もあるという捉え方が面白い(だって、秋ですよ…)。
見よここに惑乱のごと秋の火蛾
形式的には前句の命令形を反復するとともに、いかにも白帝の罪咎であるかのように、無実の蛾がおのれを火に投じる。火蛾の「が」は、名詞でありながら、「見よ、ここに○○が」という倒置の文体を音韻的に補完している。もしくは音韻的に導かれて収まった語が「火蛾」である。
危うきはたとえば露のおもきこと
この章の挙句である。露といえば王朝和歌的無常観において消えやすい、はかないものの代表であるが、ではどう消えるのか。前句の火からの連想で干上がることを思えば露の玉が大きいほど干上がらないわけだが、今度は逆に落下して落ちる危険が大きくなる。よかれと思うことは時として逆の結末を招き、それもまた無常である。そしてそれもまた白帝の罪咎なのかも知れない。
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