2018年11月3日土曜日

人麻呂は「を」とは書いていない

 ふたつ前の記事で「を」について書いた。岩波古語辞典で「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の用例としてあげられていたのは以下の二首。
「天ざかる鄙の長道恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」<万三六〇八>
「長き夜独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」<万四六三>

 後者は 直前に家持が妾の死を悼んだ歌があり、それに対する弟書持(ふみもち)が応えた歌とのこと。

  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにか独り長き夜を宿(ね)む 家持 <万四六二>

 家持の歌では「を」が二回出てくるが、 「吹きなむを」のほうは順態の接続助詞とのこと。書持がオウム返しすることになる「長き夜を宿む」がくだんの用法。

 一方、前者のほうはいささか事情がややこしい。人麻呂に先行歌がある。

  天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひくれば明石の門(と)より大和島見ゆ 人麻呂<万二五五>

 <万三六〇八>のほうは新羅使等が船上で吟誦した古歌で、茂吉『万葉秀歌』によれば「此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている」とのこと。つまりオリジナルは「を」ではなく「ゆ」なのだ。この「ゆ」について久松潜一 『万葉秀歌』には次のようにある。

 赤人の「田子の浦ゆ」も同様であるが、田子の浦のばあいは田子の浦からどこへということもないので、しだいに田子の浦にの意味になってきたが、この歌のばあいは進行を表わす「ゆ」であることがはっきりしている。しかし巻十五の歌(ゆかり註、<万三六〇八>のことでは「長道を」となっているが、これは語感からいうと人麻呂のすぐれた語感が失われている。

 なお、人麻呂の歌は『新古今集』にもえらばれているが、久松によれば「恋ひ」が「漕ぎ」に変わり、以下となっている。

  あまざかるひなのながぢをこぎくれば明石のとより大和しまみゆ

 ここでも「ゆ」ではなく「を」であり、どうやらそのようにして 「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の「を」が定着していったのではないかと思われる。

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