次の章は「非在の蝶」。「非在」とは、存在するものが今ここにいない不在と異なり、具体物ではない抽象的な概念のことらしい。そしてこの章に蝶の句はない。
まず地球そしてわたくし青き踏む 掌
踏青は旧暦三月三日に野辺に出て青々と萌え出た草の上を歩き宴を催した中国の習俗に由来するが、いきなり「まず地球そしてわたくし」と切り出す。なにごとと思うが、大地があってこその草原であり、それを踏むことのできる私なのだろう。天体のスケールで「まず地球」とまで言ったところがこの作者ならではである。
その日より冬の貌(かんばせ)はずし置く
冬の最後の日である節分と春の最初の日である立春とでは、実際に見える景色はほぼ変わらない。にもかかわらず、俳人は立春がくれば鬼の面をはずすかのように冬を捨て置き春の句を詠むようになる。その阿呆くささを捉えた機知の句だろう。
その次の章は「蝶を曳く」で、またしても蝶。こちらは全句が蝶の句。つまり前章は、じらし飢餓感を与えるための非在で、本章で満を持して味わえる構成となっていたわけである。
D海峡うちかさなりし蝶の骨
あまねく知られた安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を踏まえた句である。しかしそうとうにブラックな解釈で、その一匹以外は渡れず海峡が屍累累となっているというのだ。あえてイニシャルにしたDにはdeathの意も込められていよう。
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