2018年10月21日日曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(3)

 第2章は「三千世界」。現代国語例解辞典(小学館)から引く。①「三千大千世界」の略。仏教の想像上の世界。須弥山を中心とする一小世界の千倍を小千世界、その千倍を中千世界といい、更にそれを千倍した大きな世界をいう。大千世界。②世界。世間。「三千世界に頼る者なし」
 ①の説明によれば、三千というより、千の三乗、ギガワールドである。章中「三千世界にレタスサラダの盛り上がる」という句がある。外食業界で一時期、大盛りの極端なのを「メガ盛り」とか「ギガ盛り」とか言っていたような気もするが、それはさておき「三千世界」、どんなバラエティの世界なのか見て行こう。

  夢に見る雨も卯の花腐しかな

 甘美である。夢と現実とが「卯の花腐し」という古い季語によって融けあっている。「夢に見る雨も」に現れるm音の連鎖と「夢」「卯の花」「腐し」で頭韻的に現れる母音u音によって、やわらかな雨のなかにとろけてゆくようである。

  早苗饗や匙に逆さの山河見ゆ

 こちらは徹底的に頭韻にsa音を置いて調べを作っている。早苗饗は田植えが終わった祝い。ほんとうに匙に逆さの山河が見えたのかはどうでもいいことだろう。音韻的な美意識によって句集に彩りを添えている。

  あぢさゐの頭があぢさゐの濃きを忌む

 リフレインの句である。「あぢさゐの頭」は植物としてのアジサイの意思なのか、七変化する作者の意識のことをそう呼んでいるのか。もはや区別する必要もないのが、作者にとっての「三千世界」なのではないか。

  夕立の水面を打ちて湖となる

 湖に降る夕立は、ただちにそのまま湖水となる。明らかなことがらをあえて俳句に仕立てているわけだが、このように書かれると、夕立と湖が一体となる不思議を思う。ここでも「夕立」「打ちて」「湖」と母音u音を畳みかけて調べを作っている。

  母と海もしくは梅を夜毎見る

 三好達治「郷愁」の一節に「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。/そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」があるせいで、後から来た私たちは類想を封じられてしまった感もあるのだが、岡田一実はさらにこれでもかと「梅」「毎」を重ね、あっさりとハードルを越えてしまった。

 どうだろう。なにかしら言い止めるべき現実があって俳句をものしていると思っていると、岡田一実の表現しようとしていることは捉えられないのではないか。岡田一実の「三千世界」は俳句としての調べや表記の純度を追求した、架空の世界のような気がする。

2018年10月8日月曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(2)

 以下、章ごとに見て行きたい。第1章は「暗渠」。暗渠とはいうまでもなく、川を治水、衛生、交通などの観点から上にふたをして見えなくしたもの。川としてなくなった訳ではなく、暗いところで脈々と流れているところが眼目である。普段気にかけることはないが確実に存在するものへのまなざしは、岡田一実にとってもテーマであろう。

  暗渠より開渠へ落葉浮き届く 岡田一実

 治水行政が進んでしまったので、暗渠から開渠に転じる場面はそうあるわけではないが、あるところにはある。流れ出た落葉を見て、暗渠区間の様子に思いを馳せている。「浮き」「届く」と動詞を畳みかけることにより、着地を決めている。とりわけ「届く」が絶妙である。

  喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり

 水を飲んだときの快感を詠んでいるが、詠みようは暗渠の句と同じで、体内の見えない器官に思いを馳せている。「水澄む」は伝統的には地理の季語であるが、もはやなんでもありである。ちなみに章に六十句ほどあるうち、二十句近くはリフレインや対句を使用している。いかにその技法にかけているかが偲ばれる。

  馬の鼻闇動くごと動く冷ゆ

 馬にぎりぎりまで迫って詠んでいる。馬に慣れ親しんだ人ならこうは詠まないだろう「闇動くごと動く」の違和感、下五に押し込めた「冷ゆ」が喚起する鼻息の温度差、湿度差がよい。下五の残り二音で切れを入れて来る、この危ういバランス感覚はリフレインへの信頼があるからできることなのかも知れない。「闇動くごと動く」に律動的に現れるgo音がなんとも不気味である。

2018年10月6日土曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(1)

 しばらく岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018年)を読む。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる 岡田一実

 巻頭の句である。「火蛾は火に」で切れるという読みもあり得るが、「火蛾は火に」と「裸婦は素描に」とが助詞を揃えた対句で、両方が下五の「影となる」にかかると見るのが順当だろう。しかしながら「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」は「影となる」のありようが全然違う。前者は単に火という光源に対し火蛾が光源を遮ることを言っているのに対し、後者は光源を遮るという意味ではあり得ない。芸術作品の完成度に関わる内面的な描写のことを言っている。次元の異なるものをあえて対句とすることにより、この句自体が曰く言い難い影をまとっている。そして句集を読み進めるにつれ、その曰く言い難い影と、もうひとつ、ある種の水分がまさに句集のタイトル通り「記憶における沼」のように繰り返し現れるのに読者は直面することになる。巻頭の句にふさわしい一句であろう。

  眠い沼を汽車とほりたる扇風機

 二句目で「記憶における沼」の核たる「沼」が出現する。「眠い沼」とは現実界の沼に対する措辞なのか、それとも心象なのか。そのあたりはっきりしない茫洋とした感じこそがこの句の味なのだろう。ノスタルジックに汽車が通り、人がいるのかいないのかも定かでない世界で扇風機が回っている。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

 全句鑑賞になってしまいそうな勢いで恐縮だが、三句目も押さえておこう。この句では句集全体を通じて見られる外形的な特徴がはっきり見てとれる。ひとつはリフレインである。以前『ロボットが俳句を詠む』の連載で後藤比奈夫について書いたことがあったが、そこで触れたリフレイン技法のすべてを岡田一実はマスターしている。巻頭の「火蛾は火に」など、むしろリフレインの新たな領域を開拓している感もある。もうひとつの特徴を言えば、十七音の調べの中で岡田一実のいくつかは、短い単位をこれでもかと詰め込んだ感がある。とりわけ下五への詰め込み効果については別の句を例にあらためて触れたい。

2018年9月4日火曜日

五吟歌仙 夏至の陽の巻

   夏至の陽に光りてスカイツリーかな   媚庵
    十間橋を浴衣の少女        ゆかり
   おもむろに極彩色のボール立て     りゑ
    絶好調でも不調でもなく       銀河
   雲去りて繊月の空静まりぬ        霞
    夜学に詰まる音読のこゑ        庵
ウ  銃痕のことにはふれず秋灯        り
    ためつすがめつ減らない煙草      ゑ
   裘着せかけらるる波止場街        河
    化けて出るのもこの日が最後      霞
   シネコンで「万引き家族」二回観る    庵
    四百円を割るデカンター        り
   蛸壺をうをにとられて梅雨の月      ゑ
    明石大橋わたるまでよと        河
   スクロールしてゐる人の死について    霞
    絵踏の日時高札にあり         庵
   目にものを云はせ花筏の遡上       り
    イチゴミルクを奢ろぢやないか     ゑ
ナオ 台風のコース気づかふ始発駅       河
    地図は燃やして秋遍路ゆく       霞
   小結と自称し兄の草相撲         庵
    骨折見舞のハムに巻紐         り
   年忘れ数へるごとに人の増え       ゑ
    ケーブルカーを揺らすやまかぜ     河
   私しか見ぬ両足の爪を塗り        霞
    タンゴ奏でるジュークボックス     庵
   猫の目の合はせ鏡をワープして      り
    涼も新たな茶を酌み交はす       ゑ
   月下敲門渋 舌下推飴甘         河
    彼岸花踏み虚しく往きて        霞
ナウ 驟雨過ぎ雨の匂ひの村となる       庵
    注意を払ふ葉書投函          り
   鼻歌のあるじは庫裏の大和尚       ゑ
    降りねばならぬ石段の数        河
   見上げれば花の蕾もゆつくりと      霞
    色はうつりて百千鳥鳴く        庵


起首:2018年06月21日
満尾:2018年09月04日
捌き:ゆかり

2018年8月12日日曜日

『こゑふたつ』の「て」

 今さらながら鴇田智哉『こゑふたつ』(木の山文庫、2005年)を読む。
 常日頃、俳句自動生成ロボット「ゆかりり」なんかで遊んでいるせいか、ちょっとした作句上の文体が大いに気になったりするわけだが、例えば以下の句群などどうだろう。

①  干潟とは今を忘れてゆく模様    鴇田智哉(P91,92)
②  影ばかりうまれて春のをはりけり
③  蟻に気をとられてをれば夜になりぬ
④  夏いつか鰭のうすれてゆく魚

⑤  甘くしてこぼるる蜜や盆の家    (P105,106)
⑥  虫の夜はひとみをあけて帰りけり
⑦  送火の炎のきえてゆくはやさ

⑧  空の絵を描いてをれば末枯るる   (P110,111)
⑨  露の手に厚みのありてうごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて寒き冬に入る

 たまたま目についた「て」を含み連続する句群である。すべて「て」ではあるが、大きく分ければ接続助詞としての「て」と、動詞に連なる「て」があり機能は異なる。

◆接続助詞としての「て」
 ふたつ以上の文を接続して、順次成立、並列、原因・理由、方法・手段などを表すものである。②⑤⑥⑨⑩が該当する。/で強調してみる。

②  影ばかりうまれて/春のをはりけり
⑤  甘くして/こぼるる蜜や盆の家
⑥  虫の夜はひとみをあけて/帰りけり
⑨  露の手に厚みのありて/うごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて/寒き冬に入る

 こうして並べてみると、接続助詞としての機能はほとんど感じられず、仮に韻律を無視していいのなら「て」などなくてもそのまま成立するだろう。逆に言うと、これらの「て」は調べを整えるためだけに存在する。「上善如水」という日本酒があるが、鴇田智哉の句の希薄な質感は、このような調べを整えるだけの措辞によっても、水の如き効果がもたらされているのではないか。
 
 
◆動詞に連なる「て」
 動詞「ゆく」「をる」などに連なるものである。①③④⑦⑧が該当する。「」で強調してみる。
 
①  干潟とは今を「忘れてゆく」模様 
③  蟻に「気をとられてをれば」夜になりぬ
④  夏いつか鰭の「うすれてゆく」魚
⑦  送火の炎の「きえてゆく」はやさ 
⑧  空の絵を「描いてをれば」末枯るる 
 
 客観写生系だと写真のように瞬間を切り取ることを最大の美とする向きもあるが、鴇田智哉はそうではない。「~てゆく」による未来への継続、「~てをる」による現時点での存続などの時間の流れが、句に陰影を与えている。また、③⑧はともに「…てをれば」のかたちで順接の接続助詞「ば」に連なり、結局のところ接続助詞としての「て」に近い用法となっている。それにしても「忘れて」「気をとられて」「うすれて」「きえて」と、なんと儚い動詞の選択だろう。「描いて」は一見そうでもないが、「末枯るる」に着地する。総じて、意外にもセンチメンタルな語の運びである。