『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第一句集『鶸』の続き。
咲きとほす白梅のほか夜に沈む 清水径子
昼の月白鷺の死所照らすため
乳房もつ白鷺か森に隠れたり
抄出では三句並んでいる。清水径子にとって白は特別な色のようだ。『鶸』(の抄出)には他に「霜白し死の国にもし橋あらば」「短き世ひたすらに白さるすべり」「弟に白梅わたす夢の中」「しばらくは白い時間の玉霰」があり、多くは冥界に通じるモノトーンの味わいを句集全体に添えている。
白鷺が出たところで鳥はというと、句集のタイトルである鶸は抄出中にはない。他には「恋雀雪中に身を灯しあふ」「口中に鶫の一肢ひびくなり」「夏鶯焚きて火となるもの探す」「寒凪やはるかな鳥のやうにひとり」「影の樹に影の小鳥が冬の花」「一生のしばらくが冴え夏鶯」がある。多くは単なる取り合わせではなく、刹那的な哀感がある。ちなみに鶫が禁猟になったのは昭和四十五年のことで、それまでは普通に食用だったらしい。
生と死とやはらかき苜蓿に座し
例えば逢引で男女がやわらかい苜蓿に座すのなら話は分かる。だが、清水径子はそのようにして「生と死と」が苜蓿に座しているのだと詠む。しかも五五七のリズムによる異質感に乗せて。死が生の世界に恋人同士のように普通に入り込み隣り合っている死生観こそは、清水径子ならではの句境だろう。
一滴の春星山に加はれり
死という不在を強く意識するとき、「ない」の反対は「ひとつある」だろう。先の記事で引用した数のほとんどは一である。一への固執は、生きていることを詠むことに通ずる。掲句では、星を一滴と数えることにより、景に不思議な生命感を与えている。
寒の暮千年のちも火の色は
現れる数字でいちばん大きいものは千である。他に「夏の蝶仏千体水欲っし」という句もある。掲句、肯定的にも否定的にもバイアスを加えていない「火の色」は、おそらく人類の文明ということだろう。「も」による希求は下五の終わりで唐突にぶち切られている。「仏千体」の方は、悟りを開いた仏ではなく、死者だろう。夏の蝶の生命感がはかない。
清水径子の俳句は、見えたものを見えた通りに表現する類いのものとはぜんぜん異なる。第一句集から、独特の死生観をいかに句に定着させるかの格闘が始まっている。
(続く。次回は第二句集『哀湖』)
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