前号では「ロボットは俳句を読めるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を読めたとして、ではロボットが実作者として次の自作に役立つ要素を読んだ句から学べるのだろうか。それ以前にそもそも、人間の実作者はどういうプロセスで俳句を学習しているのだろう。
あるジャズ・ミュージシャンがどこかでジャズについて「いかにフリーだからといって、音階をドレミファソラシドと弾くわけには行かない。ジャズを弾くということは、ジャズのように弾くことなのだ」という意味のことを書いていた記憶がある。俳句だってたぶんそうなのだろう。俳句を詠むということは、俳句のように詠むことなのだ。では俳句のようだ、とは何なのか。じつに悩ましい。
悩ましいといえば、「はいだんくん」は今のところ人力で語彙と句型を増やし、語彙を句型にランダムに流し込んでいる訳だが、そもそも人間は俳句を学ぶときにそんなやり方を行っているのだろうか。半年前にこのコラムを始めたときに「はいだんくん」に仕込んだ句型には以下の3つが含まれていた。
①ララララをリリリと思ふルルルかな
②ララララがなくてリリリのルルルかな
③ララララのリリララララのルルルルル
これらはそれぞれ「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」が元になっている。幸彦句と閒石句は、私にとってかなり近いものだ。露地裏/夜汽車/金魚、階段/海鼠/日暮といった語の運びの意味的な脈絡のなさが、伝統的な「かな」止めの揺るぎない句型に乗って、言い知れぬ詠嘆を感じさせる。分けても、幸彦句の郷愁を帯びた語彙の「と思ふ」による強制的な合体の威力、閒石句の「無くて」がもたらす不在感、不安定さは格別のものだ。一方で、平明な語彙をリフレインで結合した龍太句の永遠性と姿かたちのうつくしさはどうだろう。
実作者としての私は、これら三句から句型としてのオールマイティな俳句らしさを感じたから、その句型をロボットに取り込んだのだが、一般論として人はそんなふうに句型を学習対象とするのだろうか。また、それはロボットが代替して学習することができるのだろうか。悩みは深まるばかりである。
(『俳壇』2016年8月号(本阿弥書店)初出)
2016年7月14日木曜日
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