例によって評釈というより捌き人の脳内ビジョンです。
●第一連
六月を奇麗な風の吹くことよ 子規
発句は銀河さんが見つけてきた子規の句。なんともからりとした梅雨晴間のような気持ちのよい句であるが、切れ字もなければひねりもない、オーソドックスな連句の発句にするにはいささか困ったものでもある。これを発句とするのであれば、オーソドックスな連句ではなくもっと風通しのいい形式を選択した方がよいだろう。ということでソネット俳諧とする。ソネット俳諧は十四句を四/四/三/三に分けて四連構成とし、それぞれの連に季節をひとつ割り当て、また連ごとに際立ったカラーを与える。花と月は必ずしも春、秋にこだわらず四連のどこかに入れる。三十六句からなるオーソドックスな連句に比べると半分以下の長さであり、連ごとに際立ったカラーを与えることとも相俟って、ちょっとした措辞が全体に及ぼす影響が大きくシビアな面もある。
青野の果てはあをき海原 ゆかり
脇は発句の風が吹き抜ける空間を描いて付ける。夏の季語「青野」からリフレインにより野と海のグラデーションを試みる。
天地を透明体のなにか行く 七
第三はオーソドックスな連句ではしばしば「て止め」を用い連句としての展開を誘うところであるが、ソネット俳諧では却って煩わしい作法であろう。脇の「青野」「海原」に対し、さらに大きく捉えて「天地」と置き、「青」「あを」のリフレインに対し「透明体」という硬質な言葉で受けている。発句「六月を」に対し「天地を」と助詞を揃えたところが、ソネット的な気分を盛り上げる。
ショパンの曲のやうにやさしき 銀河
捌き人から注文を出し、脇「青野の果て」に対し「ショパンの曲」と対句の気分を続けてもらった。前句の「透明体」を雨と捉えたものか(それは語源的に天でもある)、ショパンが導かれている。全体として第一連はきわめて叙景的なイントロダクションとなっている。
●第二連
にはとりを抱ける男と住み始め 桃子
第二連は第一連とは対照的に極めて人事的な内容で始まる。前句の「やさしき」を受けたものか「にはとりを抱ける男」が登場する。「抱ける」はこの場合「抱くことができる」という可能の意味だろう。「にはとりを抱ける男」が人間にもやさしいかはさだかではないが、とにかくこれは恋の句に違いない。
芸能記者に気をつける日々 媚庵
ところがその恋は人に知られてはいけないものだった。ここまで第二連としての季は明示されていない。
情報のやうに名残の雪降りて り
ここで「名残の雪」が示され、第二連は春と確定する。ぼたぼたと大きめの春の雪は、あまねく知れわたる破局のように不吉である。
行方の知れぬ春の野の旅 七
まだ寒い春の野を当てもなく旅する。全体として第二連は甘く切ない人間界を感じさせる。
●第三連
水分(みくまり)をまもる川面の弓張は 河
「みくまり」は「水配り」の意。山や滝から流れ出た水が種々の方向に分かれる所。水の分岐点。古事記には天之水分神と国之水分神が登場する。本句ではその水の分岐点の水面を三日月が守っているという。文字通り武器に由来する「弓張」という古語を選んできたあたり、なんとも緊張感を湛える。このようにして第二連の雰囲気から一変する。季としては月なので秋であるが、発句が「六月」なので、ここでは「月」の字を避ける配慮を見せている。
鏡がはりに立てかけし斧 子
前句の緊張感を「斧」で引き受け、第三連の雰囲気が決定的になる。「鏡がはり」とはどれほど鋭利に磨き込まれているのだろう。
二股を右へすすめば犬神家 庵
第三連の雰囲気と「斧」から犬神家が導かれる。「よき、こと、きく」は和の模様のひとつであるが、横溝正史『犬神家の一族』ではそれぞれ斧、琴、菊に見立てた殺人事件が起こる。
●第四連
三角巾を開くみみづく 子
前句「二股」から数字つながりで「三角巾」が導かれたのだろうか。第三連の緊張感から一転して人智を超えた癒やしの世界に向かう。季は「みみづく」なので冬。
螺子ゆるみ前頭葉に帰り花 七
惚けてしまうくらいの癒やしである。まだ花が出ていなかったので、冬の花である「帰り花」としている。
機械仕掛の神にまかせむ 庵
前句「螺子」から「機械仕掛」が導かれたものだろう。「機械仕掛の神」といえば、コンピューターに支配された社会を思ったりもする。手塚治虫の『火の鳥』では、二大国のコンピューターが直接対決して核戦争にいたり地球が絶滅の危機に瀕するわけだが、私たちのソネット俳諧は「む」で未来に希望を託して終わる。来年の六月も「奇麗な風」が吹くのだろうか。
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