2016年7月30日土曜日

罠にかかって連れてこられた世界

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)は「らん」同人の著者による第三句集。(以前に週刊俳句で「2013落選展を読む」という記事を書かせて頂いた縁で、著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます。)例によって、全体の整合性は無視して章ごとに感想を述べて行きたい。
 第一章は「ハタナカ工務店」。章中「さくら蘂降るやハタナカ工務店」があるにはあるが、それに由来して章全体のトーナリティが決定づけられている訳でもなく、意味ありげに置いたかりそめのものだろう。読み始めた早い段階で、「うっ、これは俳句として読もうとすると失敗する」ということに気がつく。何しろ、切れ字とか季語の斡旋とか二物衝撃とかの、およそ俳句として読もうとする手がかりをあっさり無視しているのだ。たった三ページ、わずか六句のうちの三句で「全員のたどりつきたる春の罠」「もう人にもどれぬ春の葱畑」「姿見へ真つ直ぐ入る春の猫」と無造作に「春の…」と置いている。普通ならそんな季語の使い方はしない。罠にかかったとあきらめてまっすぐに鈴子ワールドに入って行こう。もう戻ってこれないかも知れない。

  龍天に上る背中のファスナーを
 「龍は春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」という想像上の季語を用い句に仕立てている。ファスナーであれば下ろす句の方が多そうなものだが、本句では着衣を完成し凜と香気を放つさまを、中国由来の季語で決めている。面白い。
 
  梅雨入まで間のあるカーブミラーの歪み
 「さくら蘂降るやハタナカ工務店」の次に意味ありげに置かれている。最後を「カーブミラーかな」とでもすれば定型に収まるのに、そうしないことに気概を感じる。もっともらしい定型で「俳句」を詠みたいわけでもなければ、ましてや詠嘆したい訳でもない。あの初夏の時間と空間の夥しい浪費の中で放置されそこに存在する、あのカーブミラーの歪みが詠みたいのだ、いや、そのようなものが修理されずに存在することが「ハタナカ工務店」という章の世界観なのだ。

  油照どこで切らうが腥し
 「ハタナカ工務店」はお化け屋敷も手がけるのだろうか。突然「夕立のはじまりさうなお菊井戸」以下「我こそは源頼光氷水」まで四ページにわたり化けもの由来の句が並ぶ。掲句は「汗だくの一心不乱のロクロックビ」と頼光句のあいだに置かれている。ロクロックビを切るにしても土蜘蛛退治をするにしても、いかにも腥そうである。
 
  雁よりもはるかに箸を置かむとす
 だまし絵のようでもあり、遠近感の狂いが心地よい。この辺りまで来ると、完全に罠にかかって連れてこられた鈴子ワールドにはまっている。
 

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