一月に出た田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)が面白い。俳句自動生成ロボットはランダムな言葉の衝突が身上だが、そのロボットが嫉妬するくらいランダムだ。ロボットの観点で二句見てみよう。
翡翠の記録しんじつ詩のながさ 田島健一
巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。これはまさに私が俳句自動生成ロボットでやろうとしていることそのものではないか。あえて散文訳を試みると、翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の詩(俳句も含む)のなんと長くてばかばかしいことよ、という感じか。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば霊感に満ちた仙田洋子の句を思い出しておこう。〈父の恋翡翠飛んで母の恋〉
海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ 田島健一
「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。ただのランダムではなく音韻を手がかりにすること。じつは「はいだんくん」は音を管理していない。「水着」だったら、文字としての漢字二文字の「水着」、それから3音であること、夏の季語であることは管理しているが、「みずぎ」という読みはこれまで管理していなかったのだ。抜本的改修となるが、考えたい。
(『俳壇』2017年3月号(本阿弥書店)初出)
2017年2月14日火曜日
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