2017年2月3日金曜日

指揮棒によき濃りんどう

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続きで、III。
 
  いまものを言へばみぞれが雪になる

 章の最初の句。なんともファンタスティックな心象のものいいである。
 
  かの世から秋の夜長へ参加せり
  お彼岸のをみならはみな蝶であれ
  南風(みなみ)吹きはかなくなれり姉は草
  転生の直後水色野菊かな

 
 彼岸此岸を自在に行き来し、人でないものにさえ転生する自在な句境に達している。
 
  白夕立われも物質音立てる
  いい顔で睡てゐる月の列車かな


 二句目など、擬人法というよりは生命体と非生命体の間をも行き来する趣がある。

  濁世とは四、五日さくらじめりかな

 「濁世」は辞書的には、仏教で、濁り汚れた人間の世。末世。だくせ。それが「さくらじめり」だと言う。「さくらじめり」は辞書にない。辞書にはないが桜蘂を濡らすあの頃の万物に生命をもたらす雨のことだろう。濁世とはまさに生命のみなもとなのだ。

  浅き川なら足濡らす今日虚子忌

 虚子忌の四月八日はまた仏生会。灌仏の行事の故に発想は水に及ぶ。余談となるが「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり 辻桃子」もそのひとつだろう。

  夢に見て紅い椿を折りにゆく
  折りとりて指揮棒によき濃りんどう


 いずれも濃い色の花を手折る句だが、「指揮棒によき」は夢というよりも狂気に近い妖しさがある。

  まだ生きてゐるから霜の橋わたる

 章の最後の句は、章の最初の句と呼応する趣がある。どこか口語めいた「いまものを言へば」に対し「まだ生きてゐるから」。「みぞれ」「雪」に対し「霜」。

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