しばらく橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)を読むことにする。本句集は五章に分かれるが、まずはⅠ。
春の雪老いたる泥につもりけり
巻頭の一句である。「春泥」であれば春のぬかるみを指す季語であるが、あえてそうせず「老いたる泥」と詠み、老境の自身を投影させ雪を積もらすことにより消し去った。晩節への思いが感じられる。
火とならず水ともならず囀れる
「火とならず水ともならず」は人間のややこしい男女関係を念頭に置いた措辞であろう。
ほのぼのと芹つむ火宅こそよけれ
一句置いて、またしても火。「火宅」は仏教で、この世の、汚濁(おじょく)と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさかる家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。それを「ほのぼのと芹つむ」と修飾し、係り結びとしている。普通に考えれば形容矛盾であるところに諧謔が感じられる。
男手がなくて日暮や春の蔵
いかに老人とはいえ、男性がこのように詠んでいるところがじつに飄逸である。
ものの影猫となりたる朧かな
なんだか分からない影にぎくっとすると、ひと呼吸おいて猫の影だと分かる、その間合いを詠んでいる。朧だけに、なんだか分からない妖気が偲ばれる。ちなみにこれを発句として澁谷道、秋山正明と巻いた十八句からなる非懐紙連句『ものの影』が、橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(私家版)に収められている。第三までを紹介しておこう。
ものの影猫となりたる朧かな 閒石
乾の蔵に匂う沈丁 道
ならべたる猪口は伊万里の赤絵にて 正明
人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人
ものすごい字余りであるが、中七下五がきちんと定型に収まり着地を決めている。「人」の繰り返し、「云う」「云える」の繰り返しが無限ループ的で、人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人…と永遠に続きそうな可笑しさがある。
掻き氷水にもどりし役者かな
閒石の句にはしばしば慣用句のパロディがある。役者といえば「水もしたたる」だろう。そのパロディだとすれば「掻き氷水にもどりし」は大爆笑ものである。
噴水にはらわたの無き明るさよ
そりゃあ、ない。
藁しべも円周率も冬至かな
無意味だが非の打ちどころがないくらい真実である。だが、無関係なものを並べているようでいて、藁しべの断面も円だし、冬至から地球の公転軌道を思い浮かべ他の二つが導かれたような気もする。
体内も枯山水の微光かな
枯山水は、水を用いずに石や白砂で山水を表現した日本式庭園。そのような抽象的な把握は、当然眼前の風物以外にも及ぶだろう。そんな直感がもたらした一句に違いない。ちなみに句集のタイトルは『微光』で、函から出した本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっている。
雪山に頬ずりもして老いんかな
章末の句は、巻頭の句と呼応し雪と老いの取り合わせとなっている。雪に頬ずりをするのではない。雪山である。俳句的なずれ具合と「も」による強意が妄執めいていて、老いの表現としてすさまじい。
0 件のコメント:
コメントを投稿