2013年6月11日火曜日

詩レ入句会(9)出題

 ほぼ半年ぶりの出題です。いよいよⅢ章です。とはいえ、論考は次第に俳句に応用しづらい地平へと向かっているので、途方に暮れてそれっきりになっていたのでした。

Ⅲ章 詩と散文のあいだで
1 「かやの実」の不思議

 北原白秋に「かやの実」という短歌に似た韻律を持つ詩があり、同じ白秋の短歌「から松」や白秋の自解を引用しつつ、北川透は論考します。

かやの木に
かやの実の生り
かやの実は熟れて落ちたり、
かやの実をひろはな。

北原白秋「かやの実」

 こんな歌があるものかと批判されて、白秋が反論のためにあえて短歌に仕立てたものは以下。

かやの木にかやの実のなりかやの実は熟れて落ちたりその実ひろはな

 これに対し北川透は<白秋が、もし、はじめから歌をつくるつもりだったら、決して、こんな発想はとらないだろう>として、白秋の「から松」を紹介します。

から松にから松の影うつりをり月の山路に眺めて来れば

 北川透曰く、<後者は叙景とそれを叙する作者の眼の位相とが、音数律の構成における上句と下句として、きっちり対応させられているが、前者にはそんな短 歌的な構成の意識が、まったくないところが、発想として根本的に違うのである。「かやの実」は、韻律がほぼ短歌の形式をもっていても、それを書き下ろした 時に、しまりのない(歌らしくない)印象を与えるのは、そこに理由がある。では、それを行分けにしたときに、まさしく詩にほかならないものとして、好まし い印象を与えるのはなぜだろうか。>と。
 続けて白秋の自解(繰り返しの省略をも想定した面白いもの)を紹介した上で、白秋が<気合>とか<味>と呼んだものを北川透は論理的に解いてみせます。

 たしかに、そこで《かやの》ということばは繰り返され、それが聴覚的、視覚的に、頭韻としてのひびき合いの効果を生んでいる、と言っていい。しかし、そ の同語と繰り返しと見えるものも、行かえ(余白)を媒介にして、意味の変化を生み出していることに注意すべきである。一行目のかやは木をさしており、二行 目のかやはなったばかりの実をさし、三行目のかやは熟れたそれ、四行目は落ちているそれである。つまり《かやの》木や実は、その下に連接されることばとの 関係で、同じ<かや>でありながら、それこそ微妙な意味の差異をつくりあげている。この詩は、そのことを通して自然や宇宙の流転のもつ神秘さや淋しさを象 徴しようとしている。とすれば、《かやの》の省略は、ことばが同じでありながら、意味だけが微妙にずれてゆく過程を見えなくしてしまい、それはたしかにこ の詩の<いのち>を奪ってしまうことになるだろう。(後略)

 この後、白秋が口語自由詩を批判したことに関するくだりも面白いのですが、それは割愛して、お題です。俳句の場合、重信とそのフォロワー以外は、まあ改行などせず、貫く棒の如く書くわけですが…。

【繰り返しの句】(2~3句)
【繰り返しを省略した句】(2~3句)

投稿締切:6月15日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

よろしくどうぞ。