嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第四章は「小火」。暴れどころはまだまだ続く。身も蓋もない言い方をすればADHD(注意欠陥多動性障害)的とも感じられるが、作者の意図は「俳句の行動展示」にあるのではないか。行動展示とは旭山動物園などで広く知られるようになった手法で、動物の姿形を見せることに主眼を置いた「形態展示」ではなく、行動や生活を見せるものである。動物の場合であれば、ペンギンのプールに水中トンネルを設ける、ライオンやトラが自然に近い環境の中を自由に動き回れるようにするなど、動物たちが動き、泳ぎ、飛ぶ姿を間近で見られる施設造りを行うわけだが、俳句だとどういうことになるのか。
これが「俳人」の行動展示なら話は別で、極度にショーアップされたかたちに句会をイベント化した人々の功績も知らない訳ではない。それはさておき、いま語りたいのは「俳句」の行動展示だ。これは難しい。俳句は生まれたところで一度死んでいるからだ。一度死んだものを、あたかも生きているように、読者が旭山動物園にいるかのように見せるにはどうすればいいか。それこそ小火でも起こしてパニックの中を走り回って見せればいいのか。
薄翅かげろふ黒の秘密を舐めてより
なにも決まらぬ松葉牡丹の会議かな
校長のまむし酒なら知つてゐる
脱皮せぬと決めたる蛇の自爆かな
形態展示だとしたら一句一句に大した意味があるとは思えない。そうではなく、圧倒的な速度で迫り来る句を見切り、耳や肘をわずかに動かしてはかいくぐって前に進むイメージ。「秘密」→「会議」→「校長」、「まむし酒」→「脱皮」と連想が高速に推移しては自爆する。
かはほりのこれ以上愛せぬ総身
これまでと抛り込んだる銀の匙
あちらではミカド揚羽を見たのが最期
かと思うと、突然の指示代名詞の連鎖。そうとう切羽詰まっている。
金魚田のつまりさびしい水なのか
へうたんやすなはちすぐにすねる癖
ユニクロのつまりどこにでもある小火
これはばらばらに置かれた句。「つまり」や「すなはち」は先を急ぐための加速スイッチとして機能している。
石灼けて帰るとすればこの半島
死線まで辿ればみみず鳴く界隈
折鶴を展けばみんな楽になり
戻れなくなれば綿虫放つかな
命綱引けば一気にひこばゆる
これらもばらばらに置かれた句。仮定法であったり因果であったりする句型であるが、破壊や生死の境を条件として提示し、理不尽なファンタジーを放射する手法である。
ろんろんと水湧き牡丹崩れさう
ボサノバの夜がくすくすほうせんくわ
逃げ水やむりよくむりよくと嚙む駱駝
これらもばらばらに置かれた独特なオノマトペの句。「ろんろんと」は章頭の句である。その後上述のように加速されまくっているところで舐めきったように出現する「くすくす」や「むりよくむりよくと」は、どこか手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギのようでもある。
龍天にのぼる放屁のうすみどり
第一章にあった「龍天に上る背中のファスナーを」のリプライズにより、ようやくこの章は終わる。
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