嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第五章は「ラストシーン」。前章について「暴れどころはまだまだ続く」と書いたのは、俳諧の名残裏のように最後にはまともなものに戻って大団円という期待があってのことだったのだが、じつは最終章も暴れどころのままなのだった。いや、古典的な交響曲のように最大の暴れどころを最後に持ってきた、というべきか。『あしたのジョー』の最後のホセ・メンドーサ戦でコンニャク戦法やトリプル・クロス・カウンターを繰り出す矢吹丈のように嵯峨根鈴子が技を尽くす。
老鶯のこゑ飴色となりにけり
言語からはがれてあげはてふのだつぴ
章頭、「老鶯の」はじつにオーソドックスにして手練れの一句である。飴色と形容された老鶯のこゑは、想像するだに楽しい。それに対し二句目の転じぶりはどうだろう。とりわけ平仮名表記の「だつぴ」。「言語からはがれて」とあるが、もはや意味の世界ではない、書かれた文字の快楽が暴走している。
テロップのもしもしこちら蛍です。
図に乗るな方舟は泥舟だ・母
かまきりの振り向けば、だが、首が無い
書かれた文字の快楽の暴走といえば、俳句ではあまり使わない「。」「・」「、」の使用もそれに該当するだろう。余談ながら、句読点に関していえば「雷雨です。以上、西陣からでした 中原幸子」の衝撃が私にはずっと忘れられない。
昼からは姉のかたちになめくじり
おとうとを薄めてみどりのソーダ水
先の「図に乗るな」句の母といい、掲句の「姉」「おとうと」といい、作中の家族はまったく架空のもので自在にすがたかたちを変える。
赤チンを塗つて折笠美秋より淋し
車谷長吉といふしたたれり
家族ばかりではない。この際、何でもありで総動員である。車谷長吉とくれば、何句か前にあった「かぶとむしガラス隔てて触れにけり」のかぶとむしの名は武蔵丸だったのか、などとこちらの脳が書かれていないことについ共振する。
瑠璃揚羽あゝ背後よりブラックホール
月見草マリアもすなるわるさかな
総動員は本歌取りに及ぶ。「太古よりあゝ背後よりレエンコート 攝津幸彦」「男もすなる日記といふものを… 紀貫之」…。
たぶん読者の私がうかつなだけで、他にも仕掛けはいっぱいあるのだろう。さて、このように技を繰り出して終楽章を駆け抜け、作者はどこへ行こうとしているのか。句集のタイトルとなった句を見てみよう。
蜘蛛はクモの仕事に励むラストシーン
実際に何かのドラマのラストシーンだったのであろうが、いかにもお約束のモンタージュで、一抹の不吉さの象徴としてドラマ本編と取り合わされるべき蜘蛛は、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならない。二物衝撃の本質は、取り合わされたもの同士が等価であることだから、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならないのと同様に、ドラマ本編もドラマ本編の仕事をしなければならない。ひるがえって俳句を見渡せば、季語の仕事に励む季語と、季語以外の仕事に励む季語以外のあまりにも類型的な堆積また堆積。そんな世界から、嵯峨根鈴子はあらゆる手段を使ってでも脱出しようと試みたのではないか。そんな気がする。
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