田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、句型とか口語とかについて。
句型についていうと、田島健一の句は有季定型の中のかなり自由な立場に位置するということになるだろう。季語についてはざっくり夏なら夏で、その中での初夏、仲夏、晩夏の前後などほとんど気にしていないし、五七五は多くの場合、自在に句またがりされ、それでいて全体で十七音のところに着地し踏みとどまるものが多い。そんな中、口語の句がいくつかある。
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
いまも祈るよ音楽の枯野を牛
流氷動画わたしの言葉ではないの
菜の花はこのまま出来事になるよ
戦争したがるド派手なサマーセーターだわ
クラスメイトは狐火よ信じる鈴
先に田島健一の句はぜんぜん孤高じゃないと書いたが、そう感じさせる要因のひとつは、これらの句が持つ舌っ足らずな人なつっこさのせいだろう。句集という単位でまとめて田島健一の世界に接する場合、これらは持ち味として賞味されるだろうが、伝統的な句会の場でこれらの句が一句一句の単位で匿名で出されたら、連衆はどう読んだのだろう。一句として立つことを前提として、「甘い」とか「ゆるい」とか酷評を受け続けてきた歴史があったのではないだろうか。
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ
そんななか臥薪嘗胆、田島健一がたどり着いた境地が「ぽ」だったのではないか。そんな気がしてならない。
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