田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「見る」とか「眼」への固執について。
句集全体を通じ「見る」「見える」「見つめる」「ながめる」、あるいはその器官としての「眼」「まなこ」を詠み込んだ句がじつにおびただしい。一般論でいえば、見ているから対象を詠めるのであって「見る」はわざわざ言う必要がなく、そのぶん別のことを表現しましょう、なんて話になりがちなものだが、田島健一の場合はどうか。菅官房長官のように「その批判にはあたらない」「まったく問題ない」と言えるのか。何句か見てみよう。
玉葱を切るいにしえを直接見る
玉葱や包丁や俎を「見る」と詠んでいるのであればそれは当然不要であるが、この句で見ると言っているのは「いにしえ」である。「いにしえ」が眼前のものでない以上、まったく問題ない。母にせがんで玉葱を切らせてもらった日、飯盒炊爨の河原、恋人と過ごしたアパートの一室、あるいは小説の一場面。そんな自分の/他人のさまざまないにしえが、玉葱の強烈な匂いとともにまざまざとよみがえる、そんな脳への働きかけのありようを「直接」と言っているのだ。
枇杷無言雨無言すべてが見える
目に見えるものとして「枇杷」と「雨」のふたつを挙げ、ことさらに「無言」のリフレインによって聴覚情報がないと言っている。しかもそのうち「枇杷」はもともと音を発するものではない。そこで切れがあり、「すべてが見える」と言っているのだが、この「すべて」が「枇杷」と「雨」のふたつでないことはあきらかである。ここで「見える」と言っているのは、目に見えることではなく、五感を超えて襲ってくる既視感ともいうべきものではなかったか。あるいは「永遠」ともいうべきものではなかったか。
満月に眼のあり小学校の石
満月に眼があるなら、満月の光の及ぶところはすべて遮るものなく見えるはずだ。目の前の小学校の校庭の石のような小さいものであっても、はるか彼方の月から見えるはずだ、という科学者のような論理的思考を、俳句の方法で断定している。この眼には全能感がある。
颱風の眼にいて猫を裏がえす
困ったことだ。書かれている通りの句のはずなのに、この句集の中に置かれると、「颱風の眼」というあまねく知られた語でさえ、特別な意味を持っているのではないかと思い始めてしまう読者の自分がいる。なんということだ。
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