2019年8月15日木曜日

『水界園丁』を読む(1)

 しばらく生駒大祐『水界園丁』(港の人)を読む。約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められているという。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。このブログの常で、全体を読み終わる前に書き始める。読者の私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。

  鳴るごとく冬きたりなば水少し  生駒大祐
 「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句に戻ろう。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から肥沃ののち秋に至る句集なのか。

  奥のある冬木の中に立ちゐたり
 疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この人の俳句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音が持ち味というものだろう。

  肉食ひしのち山や川なんの冬
 いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。

  ときに日は冬木に似つつ沈みたり
 オーソドックスな万感の自然詠である。

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