2019年8月16日金曜日

『水界園丁』を読む(2)

 「冬」からもう何句か見てみよう。

  数へてゐれば冬の木にあらはるる  生駒大祐
 一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。
 目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。

  たそかれは暖簾の如し牡蠣の海
 そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。

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