『炎環新鋭叢書シリーズ5 きざし』(ふらんす堂)を読む。最初に宮本佳世乃さん。
まずは第一印象で八句。
桜餅ひとりにひとつづつ心臓 宮本佳世乃
「ひとりにひとつづつ心臓」という当たり前の事実に対して季語を配合している句のようにも見えるが、桜餅を目の当たりにして詠んだ句のようにも思えてくる。桜餅の不思議な曲面が、こう並べられると心臓となんとも響き合っているではないか。
さうめんの水切る乳房揺れにけり 宮本佳世乃
「桜餅」に続いて「さうめん」。佳世乃句には食べものの句が多い。とも言えるし、「心臓」に続いて「乳房」。佳世乃句には身体部位の句が多い。とも言えるし、後の句にもあるように、佳世乃句には「や」「かな」「けり」といった切れ字が、自然に取り込まれている、とも言える。その場合でも、いかにも俳句のようなつらをして、詠んでいる内容は佳世乃ワールドである。なんら過剰な思い入れもなく、言い放たれた「乳房」と「けり」が実によい。
夕焼けを壊さぬやうに脱ぎにけり 宮本佳世乃
散文には翻訳できない。叙情的な句であるが、俳句の長さ以上の余分な感傷はない。ここでも「けり」が決まっている。
弁当の本質は肉運動会 宮本佳世乃
これは可笑しい。「弁当の本質は肉」だけで実に可笑しいし、こんなふうに「本質」ということばを使われると、世間のうるさ型の「本質を理解していない」とか言う議論好きな人たちに「ざまあみろ」と返したくなるほど痛快である。「運動会」も単刀直入でよい。
ひまはりのこはいところを切り捨てる 宮本佳世乃
どこということはできない。作者が明示しない以上「ひまはりのこはいところ」でしかないのだが、ひらがな表記によって旧仮名遣いが誇張され、なんだか定かでない不気味さが迫ってくる。その不気味さをそのまま残して詠むということをせず、スパっと「切り捨てる」ところに佳世乃句の味わいがある。
鬼百合の雌蘂に触れてしまひけり 宮本佳世乃
たっぷりと俳句の長さを用いている。詠んでいる事実は「鬼百合の雌蘂に触れた」だけであるが、ここでも「けり」が決まっていて、すべての一語一語が機能し始め、性の呪いのようなものを感じる。俳句マジックであり、佳世乃マジックである。
ともだちの流れてこないプールかな 宮本佳世乃
これは切ない。豊島園の「流れるプール」だろう。その固有名詞があってこその「流れてこないプール」である。こんな今ふうの情景が「かな」を用いた俳句形式へすっぽり収まる、その収まり具合が楽しい。ともだちが流れてこないまま、時が俳句の中に定着している。
しまうまの縞のつづきのぼたん雪 宮本佳世乃
ひと続きに「しまうまの縞のつづきのぼたん雪」と詠み放ったところがよい。これも散文には翻訳できない。具体的な細部の欠落した夢のようなモノトーンの心象風景を感じる。
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