2019年3月20日水曜日

七吟歌仙 春雨の巻 評釈

   春雨や剥けば魚肉のやはらかさ    凱

 魚肉ソーセージはビニールのパッケージにくるまれている間はそれなりの固さだが、剥くと意外なやわらかさでなんとも落差がある。そのやわらかさは、外をそぼ降る春雨と響き合うほどのやわらかさである。凱さんは「みしみし」初登場の俳人。

   春雨や剥けば魚肉のやはらかさ    凱
    折檻のごと恋猫のこゑ     ゆかり

 脇は発句と同じ場所、同じ時刻を詠み挨拶とする。折しもどこかから発情した猫の声が聞こえる。人間の幼児が折檻を受けているような、紛らわしい声である。そんな猫も恋に疲れれば魚肉ソーセージを食べるのだろうか。といった情景で、発句にはない音声情報を詠み込んで挨拶としている。

    折檻のごと恋猫のこゑ     ゆかり
   朧夜の香のたちのぼる水辺にて   青猫

 第三は発句と脇の挨拶から離れ、連句としての展開の始まりとなる。発句と脇による狭隘な生活空間を離れ、むせるような春の夜の水辺を詠んでいる。青猫さんは俳人として句集を出してはいるが、現代詩人でもあり、萩原朔太郎研究家でもあり、声楽家でもある。

   朧夜の香のたちのぼる水辺にて   青猫
    乗り捨てられた四輪駆動     媚庵

 人気のない水辺には四輪駆動車が乗り捨てられている。媚庵さんは歌人にして俳人。

    乗り捨てられた四輪駆動     媚庵
   畑まで残月を背に向かひたり    遊凪

 月の座であるが、打越に朧夜があるので昼の月としている。ここから秋の句が続く。遊凪さんは「みしみし」初登場の連句人。

   畑まで残月を背に向かひたり    遊凪
    息吹きかけて磨く紅玉      裕美

 畑で収穫した紅玉だろうか。丹精に磨いている。と、表六句のあいだはさしたる波乱もなく進む。裕美さんは「みしみし」初登場の俳人。

    息吹きかけて磨く紅玉      裕美
ウ  よそいきで急ぐ芒の波の道     玉簾

 初折裏である。ここからが暴れどころである。デートなのだろうか、紅玉を持ってよそいきのいでたちで芒の波の道を急いでいる。玉簾さんはネットの古くからの友人で俳人で歌手だが、久しぶりすぎて「みしみし」に参加していたかさだかでない。それ以前にも別のところで連句は巻いている。

ウ  よそいきで急ぐ芒の波の道     玉簾
    湘南までぢや話し足りない     凱

 直情的に口語で畳みかけてきた。湘南の夏は熱いぜ。ここから恋の座。

    湘南までぢや話し足りない     凱
   生命の起源の棒の如きもの      り

 折しも地球の生命の起源の調査を目的とした無人探査機「はやぶさ2」が小惑星リュウグウへの着陸に成功した。地球の生命の起源はいざ知らず、人間の生命の起源といえば棒の如きものだろう。

   生命の起源の棒の如きもの      り
    シーラカンスとなるまで眠る    猫

 激しい恋のあとはひたすら眠る。「生命の起源」に呼応して熟睡のさまを「シーラカンス」としている。ここまでが恋。

    シーラカンスとなるまで眠る    猫
   聞きたての都市伝説を反芻し     庵

 「生きた化石」とか「伝説の魚」とか呼ばれる前句「シーラカンス」に対し、「都市伝説」という今どきの怪しげなもので付けている。

   聞きたての都市伝説を反芻し     庵
    今でも残る巴里の地下街      凪

 観たばかりの「ブラタモリ」のパリの回で付け、まさに前句「聞きたて」を実践している。美観の整った都市計画を断行した際に古い街並みがそのまま地下街となったという内容なのだが、世に言う「都市伝説」とは意味がずれているところがなんとも可笑しい。

    今でも残る巴里の地下街      凪
   大長編映画の果てて月涼し      美

 前句「巴里の地下街」を「大長編映画」の中のできごととし、夏の月を詠んでいる。「みしみし」の連衆は自在に、前句の内容がテレビや映画の中のできごとという、メタな見立てを行う。世間一般の連句がそんなふうに進行するものなのかは、よく分からない。

   大長編映画の果てて月涼し      美
    人肌ほどの合歓の木の下      簾

 「人肌ほどの」とくればぬくもりだろうし、前句の「涼し」に対して付けたものであろうが、そのぬくもりを保持しているものが尋常ではない。合歓の木の小葉片が夜に重なり合うさまを捉えたものか。

    人肌ほどの合歓の木の下      簾
   地元では代打の神様と呼ばれ     凱

 合歓の木の下で口説いているのだろうか。眉唾ものである。

   地元では代打の神様と呼ばれ     凱
    野次将軍も四年契約        り

 本当は野次っているばかりだったのだ。ちなみに四年というのは衆議院議員の任期。

    野次将軍も四年契約        り
   言の葉はやや脂じみ花の雨      猫

 前句のタヌキオヤジのような人物をペーソスでくるみ、花の座として詠み上げている。すごいものだ。

   言の葉はやや脂じみ花の雨      猫
    酸素ボンベの重き遅き日      庵

 「言の葉はやや脂じみ」の異変は重病だったのである。字面の「重き遅き」が痛ましい。もちろん「重き」は前にかかり「遅き」は季語の一部として後ろにかかるのだが、表記の面白さは本来の意味には関係なく現れる。

    酸素ボンベの重き遅き日      庵
ナオ 蝌蚪の紐バケツに入れて児ら帰る   凪

 生命維持装置の管のいろいろに対し「蝌蚪の紐」で付けていると思うとなんだか可笑しい。

ナオ 蝌蚪の紐バケツに入れて児ら帰る   凪
    あらゆるものに名前をつけて    美

 生まれ来るおたまじゃくしの一匹一匹にも名前を付けるのだろう。

    あらゆるものに名前をつけて    美
   玉葱を刻む前から泣いてをり     簾

 え、玉葱にも名前を付けていたのか…。

   玉葱を刻む前から泣いてをり     簾
    ミラーボールに乗つて銀座へ    凱

 雰囲気を変えて丸いものつながりで「ミラーボール」を出しているが、ミラーボールは乗る物ではないし「銀座」という地名も曰く言い難いので、狙って出したミスマッチ感なのだろう。

    ミラーボールに乗つて銀座へ    凱
   裏筋の画廊でお湯が沸いてゐる    り

 前句のけばけばしさに対し、銀座の別の面で付けている。

   裏筋の画廊でお湯が沸いてゐる    り
    夕日にまぎれ一角獣が       猫

 この夕日は実景のものだろうか、あるいは一角獣とともにある画廊の作品中のものだろうか。

    夕日にまぎれ一角獣が       猫
   男装の麗人の襟巻の紺        庵

 虚子の句に「襟巻の狐の顔は別に在り」があるが、一角獣の毛皮も襟巻にするのだろうかとか一角獣も「こん」と鳴くのだろうかとか余計なことを考える。正気に戻ると、一角獣と男装の麗人の取り合わせはなかなかかっこいい。

   男装の麗人の襟巻の紺        庵
    腕を組もうと誘ふウインク     凪

 男装の麗人が目配せをしているのだろうか、あるいは男装の麗人に目配せをしているのだろうか。はたまたそれは男性だろうか女性だろうか。何も述べていないところに余情が広がる。

    腕を組もうと誘ふウインク     凪
   疑問符を投げ掛け合つて長き夜    美

 前句を説明することなく、ただならぬ関係として一夜をともにしている。月の座を前にここから秋の句が続く。

   疑問符を投げ掛け合つて長き夜    美
    夢の中でも揺るる撫子       簾

 ただならぬ関係が夢の中に持ち越されている。

    夢の中でも揺るる撫子       簾
   霧の辺をローソク足がついてきて   凱

 本来月の座の位置だが、打越が「長き夜」で、表六句の月の座でも「残月」が既出であるため、ここは月を出すのを見送り、代わりに「ローソク足」という変なものを出している。「ローソク足」は株式の評価に用いるもので、四本値(始値・高値・安値・終値)を使用しローソクの形に表したチャートである。用語として表記の定まったものなので、いかに連句とはいえ、勝手に「蝋燭足」とは改められない。株式用語ではあるが、霧と取り合わせられるとなんだか妖怪のようで可笑しい。この巻、凱さんばかりがぶっ飛んでいる趣がある。

   霧の辺をローソク足がついてきて   凱
    ぽつかり上がる終値と月      り

 先送りした月の座を引き受けている。「ローソク足」に一体どう月を付ければいいのだとも思うが、ETFを大量購入して買い支えた。

    ぽつかり上がる終値と月      り
ナウ 白地図を開けば青き風ばかり     猫

 ここから名残裏である。暴れどころは前句までで、挙句に向かい姿勢を正す。前句とは一線を画し、どこか青春性を感じる句としている。「青嵐」などを頭におけば、夏の季感とも言える。

ナウ 白地図を開けば青き風ばかり     猫
    バンガローから女声合唱      庵

 前句の夏っぽさを受けてバンガローとしている。奇しくも青猫さんは声楽家なのだが、媚庵さんはご存じだったのだろうか。

    バンガローから女声合唱      庵
   車椅子で小径をつたふ老夫婦     凪

 高齢化社会の現代ならではの景で付けている。

   車椅子で小径をつたふ老夫婦     凪
    お守りのごと風船を持つ      美

 老夫婦のどちらかが風船を持っているそのさまが、なんともお守りのようである。花の座を前にここから春の句としている。

    お守りのごと風船を持つ      美
   ひとひらの花が睫毛に降る日暮    簾

 極度にクローズアップして触覚的に花を詠んでいるが、前句との付き具合にリアリティがある。

   ひとひらの花が睫毛に降る日暮    簾
    ぶらんこ越しに遠浅の街      凱

 挙句では逆にカメラが引いて、風景全体を収める。「遠浅の海」ならありきたりの措辞だが、「遠浅の街」がこの世ならざる幻想のようである。

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