2019年5月20日月曜日

七吟歌仙 宙に日のの巻 評釈

   宙に日のさざなみの浮く若葉かな    一実
 発句は大胆な措辞により、光のゆらめきを感じる若葉の頃だ、と高らかに詠み上げてすがすがしい。若葉がわずかに揺れているのだろう。

   宙に日のさざなみの浮く若葉かな    一実
    金管の音を運ぶ薫風         三島
 脇は発句の光のありようを「金管」で引き受けて音に変換し、発句では言外に感じさせるにとどめていた風に運ばせることで挨拶とした。

    金管の音を運ぶ薫風         三島
   バンダナを載せれば鼻の大きくて    西生
 第三である。発句と脇で交わす叙景の雰囲気を破り、唐突にふわりとバンダナが舞って、はみ出した鼻がクローズアップされる。かなりいたずらっぽい第三で、表六句でなければここから恋に展開することだってできただろう。

   バンダナを載せれば鼻の大きくて    西生
    砂に水脈引くひとこぶらくだ   くらげを
 前句の「鼻」から「ひとこぶらくだ」が導かれたのだろう。「砂に水脈引く」がシュルレアリスム絵画のように印象的である。

    砂に水脈引くひとこぶらくだ   くらげを
   イヤフォンをはづし降り立つ月の庭  れいこ
 月の座である。そのまま付けると童謡「月の沙漠」になりかねないので、「イヤフォンをはづし」という手の込んだ設定としている。打越に「鼻」があって「イヤ」でいいのかという声も聞こえてきそうだが、身体部位を詠んでいるわけではないのでよしとする。

   イヤフォンをはづし降り立つ月の庭  れいこ
    骨にも見えるもみぢ葉の色      義之
 月下に見る紅葉は無彩色で骨のようだ、という季語を無効化する使い方で秋の句を続けている。発句が「若葉」なのに「もみぢ葉」でいいのかという声も聞こえてきそうだが、景がぜんぜん違うのでよしとする。

    骨にも見えるもみぢ葉の色      義之
ウ  踊子の闇ゆるやかに翻し       あんこ
 前句の静謐なイメージに対し、「踊子」に転じている。「闇ゆるやかに翻し」がなんとも官能的な描写である。ここまで秋。
 
   踊子の闇ゆるやかに翻し       あんこ
    背と背合はせて汗を合はせて      実
 男女による激しい踊りのようでもあり、愛の営みのようでもある。

    背と背合はせて汗を合はせて      実
   折り紙のどうぶつふたつ横たはる     島
 前句の「背と背合はせて」から「折り紙」が導かれつつ、愛の営みの終わりのように果てている。

   折り紙のどうぶつふたつ横たはる     島
    何か出てゐる単三電池         生
 前句の「折り紙のどうぶつ」から子ども部屋的なイメージを下敷きにしつつ、塩を吹いているのか液漏れしているのかの単三電池を通じ、幼年時の記憶から消し去ることのできない不気味な異変を詠んでいる。

    何か出てゐる単三電池         生
   まちがへて枯野に歩くピエロをり     を
 前句までの室内のイメージを離れ、「枯野」に転じている。「まちがへて」というのは、転調のためのそうとうなパワーワードである。

   まちがへて枯野に歩くピエロをり     を
    行方知れずの兄に凍月         れ
 月の座である。前句で「枯野」が出たので冬の月としている。連句を巻いていると、意図的であろうとなかろうとその時の実社会の動きや放映していたドラマなどが暗黙の共通理解として入り込んでくる。「行方知れずの兄」に、連続テレビ小説「なつぞら」に登場する、タップダンスの得意な兄のイメージが重なる。

    行方知れずの兄に凍月         れ
   逃亡者逃げる相手が分からない      之
 「逃げる相手が分からない」という不条理さは、連句の全体構成の中では初折裏、名残表のいわゆる「あばれどころ」ならではのもので、スピード感をもって意味のしがらみから逃れている。

   逃亡者逃げる相手が分からない      之
    倫敦橋に雨のそぼ降る         あ
 いったん叙景により沈静化させている。ずいぶん遠くまで逃げたものだ。

    倫敦橋に雨のそぼ降る         あ
   秒針の進みの淀むゆふべ来て       実
 観光名所つながりで前句「倫敦橋」からビッグベンが導かれたものか。「秒針の進みの淀む」という捉え方がなんとも俳である。

   秒針の進みの淀むゆふべ来て       実
    跳んでは跨ぐ歯車の部屋        島
 『ルパン三世 カリオストロの城』的なドタバタで付けている。

    跳んでは跨ぐ歯車の部屋        島
   ポイントを貯めれば花の咲くらしく    生
 花の座であるが、それどころではないらしい。ファミコンかなにかに夢中のようである。こんなふうに花の座をやり過ごすのも、ときには楽しい。

   ポイントを貯めれば花の咲くらしく    生
    五十五倍の春嵐来よ          を
 七七の韻律に乗せるために選ばれたであろう「五十五倍」というポイント加算がなんとも半端で可笑しい。花の座をやり過ごしたことに対して、捌き人を代弁するかのように試練を与えている。

    五十五倍の春嵐来よ          を
ナオ 草餅のにほひをさせて姑が        れ
 ここから名残表。あばれどころはまだまだ続く。「五十五倍の春嵐」から「姑」が導かれている。花の座からここまでが春の句。

   草餅のにほひをさせて姑が        れ
    お手玉をする双子の姉妹        之
 嫁の心中など知るよしもなく、「草餅」につられて娘たちがお手玉を披露している。初折裏六句目に「兄」があるが、障るものでもなかろう。

    お手玉をする双子の姉妹        之
   歩くたび夢の廊下は長くなり       あ
 言われてみれば確かに前句の全体が夢のなかのできごとのようではある。うまく雰囲気をすくい上げて付けている。

   歩くたび夢の廊下は長くなり       あ
    戦争の顔やはら見えたる        実
 廊下とくれば「戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉」だろう。「やはら」は現代語では「やおら」で、そっと、静かに、ゆっくりとの意。

    戦争の顔やはら見えたる        実
   膝上の猫あやしつつ意を決す       島
 007シリーズには、猫を膝の上であやす悪役の首領が登場する。検索すると、エルンスト・スタヴロ・ブロフェルドというらしい。前句とは裏腹に、初期のシリーズでは猫のみがクローズアップされ決して顔が映されなかったのが印象的だった。

   膝上の猫あやしつつ意を決す       島
    ラジオネームは準未成年        生
 意を決したのはラジオ番組への投稿だったのか。打越「戦争」とのあまりの落差が可笑しい。

    ラジオネームは準未成年        生
   甲板に雪積んで往ぬ烏賊漁船       を
 ずいぶん遠い付けだが、甲板に雪を積んでいるくらいだから操業中ではないのだろう。漁場に着くまではラジオをがんがん鳴らしているのだろうか。

   甲板に雪積んで往ぬ烏賊漁船       を
    みやげに貰ふ一澤帆布         れ
 船つながりで「一澤帆布」が導かれている。先代の死去後相続問題があったが、検索したところ現在は「一澤帆布製」「信三郎帆布」「信三郎布包(かばん)」の三ブランドで展開している由。

    みやげに貰ふ一澤帆布         れ
   なつかしき北野祭の初デート       之
 「なつかしき」というのはブランド分裂以前くらいに思いを馳せているのだろう。「北野祭」は八月四日に開かれる京都北野天満宮の祭。ふたたび恋の座。

   なつかしき北野祭の初デート       之
    囁きあへる黄昏の列          あ
 祭なので、どっと繰り出し列をなしているのである。「囁きあへる」とあるが、実際にはかなりの大声を出しても途切れ途切れだったに違いない。

    囁きあへる黄昏の列          あ
   月影のまどかに満ちて海を引き      実
 月の座で恋は終わる。若者よ、「月がきれいですね」とちゃんと言ったのか。連句の進行をいったん離れ、ここまでの岡田一実の句を振り返ると、「宙に日のさざなみの浮く若葉かな」における「さざなみの浮く」、「秒針の進みの淀むゆふべ来て」における「進みの淀む」、本句における「海を引き」など、ある対象を単に詠むのではなく、それが時空にどのように影響を及ぼしているかを、大胆な措辞で捉えているのが分かる。じつに刺激的である。

   月影のまどかに満ちて海を引き      実
    夜長を走る作曲のペン         島
 しばらく屋外の句が続いたので、室内に転じている。ベートーヴェンもドビュッシーも超える曲が今さら書けるというのか。

    夜長を走る作曲のペン         島
ナウ 敗荷は秘密のやうにゆるやかに      生
 不思議な付けである。「秘密のやうにゆるやかに」自体がひとつの世界観の提示だとさえ言える。咲き誇っていた蓮も季節がめぐればくたくたの敗荷となるのだが、それは秘密がいつしか秘密ではなくなる「やうに」ゆるやかになのか。ものすごい直喩である。そして前句との付けはどうなのか。時の流れの中で、創作の秘密などなにもない、とまで言い放っているのか、この句は…。

   敗荷は秘密のやうにゆるやかに      生
    逝き残りたる吾とぞ思ふ        を
 前句「敗荷」に自身を仮託している。秘密を巡りとんでもない悔恨があるのだろう。

    逝き残りたる吾とぞ思ふ        を
   休日のバス乗り継いで古書店へ      れ
 生きているうちにやらないといけないと決めた調べものがあるのだろうか。余生を楽しむ古書店めぐりとは違う切迫感が「休日のバス乗り継いで」から感じられる。

   休日のバス乗り継いで古書店へ      れ
    夢判断を道標とし           之
 前句から感じられる切迫感は夢判断によるものだったのだ。ところで名残表三句目に「歩くたび夢の廊下は長くなり」がある。離れているとはいえ、夢を媒介して大抵のものは行き来できるので、一巻に二回も「夢」が出てくるのはさすがに捌き人の失策だろう。
 
    夢判断を道標とし           之
   鳥居よりあふれてゐたる花の雲      あ
 お告げめいた前句の「夢判断」から「鳥居」が導かれているのだろうが、鳥居を枠と捉え「鳥居よりあふれてゐたる」とした構図の組み立てがよい。初折裏の花の座をあっさり捨てた分、ここで見事に取り返している。

   鳥居よりあふれてゐたる花の雲      あ
    紋白蝶は空の高みへ          実
 唐突な構造物である前句「鳥居」の垂直性を生かして、広がりのある挙句となっている。

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