2010年6月21日月曜日

連句と大岡信

連句というと大岡信を思い出す。

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少年
         大岡信

大気の繊(ほそ)い折返しに
折りたたまれて
焔の娘と波の女が
たはむれてゐる

松林では
仲間ッぱづれの少年が
騒ぐ海を
けんめいに取押へてゐる
ただ一本の視線で

「こんな静かなレトルト世界で
蒸留なんかされてたまるか」

仲間ッぱづれの少年よ
のどのふつくら盛りあがつた百合
挽きたての楢の木屑の匂ひよ
かもしかの眼よ
すでに心は五大陸をさまよひつくした
いとしい放浪者よ

きみと二人して
夜明けの荒い空気に酔ひ
露とざす街をあとに
光と石と魚の住む隣町へ
さまよつてゆかう

きみはじぶんを
通風孔だと想像したまへ
ほら いま嵐が
小石といつしよに吸ひこまれてゆく
きみの中へ

ほら いま煤煙(すす)が
嵐になつてとびだしてくる
きみの中から

さうさ
海鳥(うみどり)に
寝呆けまなこのやつなんか
一羽もゐないぜ

泉の轆轤がひつきりなしに
硬い水を新しくする
草の緑の千差萬別
これこそまことの
音ではないのか

少年よ それから二人で
すみずみまで雨でできた
一羽の鳥を鑑賞しにゆかう
そのときだけは
雨女もいつしよに連れてさ

河底に影媛(かげひめ)あはれ横たはるまち
大気に融けて衣通姫(そとほり)の裳の揺れるまち
おお 囁きつづける
死霊(しれい)たちの住むまちをゆかう

けれど
少年よ
ぼくはきみの唇の上に
封印しておく
乳房よりも新鮮な
活字の母型で

「取扱注意!」

とね

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 『大岡信著作集 第三巻』(青土社。1977年)より引用。この著作集には各巻「滴々集」という自作を語る書き下ろしもしくは談があって、こんなことを大岡信は言っている。
 
 連句をやっているうちに、僕自身の詩に大きな影響が出てきました。それは、明確な手触りのあるイメージが出てこないような行は書けなくなってしまったということ。同時に各行の間に大きな断絶と飛躍がある詩でないと自分で満足できなくなっちゃったんですね。これは僕にとって、結局のところは非常にいい影響だったと思います。『悲歌と祝祷』に収めた詩は、雑誌などに発表した当時には、違った形だったものが多いんです。時期的に早いものには相当手を入れましたが、その手の入れ方の基本原則は、今言ったようなことです。だらだらと長い詩を書くのはいやになっちゃった。それから、激しい断絶を含んでいて、しかも背後には繋がりが見てとれる、そういう詩を書こうとした。この詩集は、僕のそういう意図が強く出ていると思いますが、読む人には緊張感を要求するものになっているかもしれません。しかし僕は、それはそれでいいと思っているんです。
 
 
 
 
 この「滴々集」を、今このタイミングで読めたのは私にとってラッキーでした。そういう目でこの「少年」を見渡すと、皆さん、いかがですか。

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